「この一冊で聖書が分かる!」白鳥春彦著(知的生き方文庫)
この一冊で「聖書」が分かる! 白鳥春彦
知的生き方文庫
文学、美術、政治、哲学、科学、映画に至るまで様々な分野に渡って影響を及ぼし続けてきた聖書。これほどのベストセラーは歴史的にも類を見ないでしょう。聖書について学べば、様々な分野でより深い知見が得られる事は間違いありません。本書では旧約聖書、新約聖書(ユダヤ教で言う聖書は旧約のみを指す。)の概要はもちろん、ユダヤ人の民族的歴史、イエズス•キリストという人物について、キリスト教の迫害〜発展までの歴史について触れられており、聖書の入門書の中でも相当充実した内容になっています。決してキリスト教徒向けに書かれた本ではなく、聖書に何が書かれているのかを純粋に学ぶ事が出来る良書です。
これでたったの680円(+税)!なんと良心的な価格でしょう!!
◯聖書について学ぶ意義とは…??
日本で生きていると、多くの人は聖書やキリスト教などの影響を意識することはないと思います。私も今まで特に意識することは無かったのですが、著者は冒頭において、聖書的な価値観や概念が日本にまでも大きな影響を与えていることを述べています。本書で紹介されている、代表的なものは以下の通りです。
① 暦
世界のあらゆる国で西暦が使用されています。西暦のカウントはイエズスが亡くなった年齢を西暦0年としております。例外として、イスラム教徒はヒジュラ暦(預言者ムハンマドがメッカからメディナへと移った年を西暦0年としている。)を使用、仏教徒の多い東南アジア諸国では仏陀が入滅したとされる年を0年としている仏暦を使用している、という事がありますが、そういった国でも対外的には西暦を用いています。
② 私たちの日常生活への影響
1週間は7日間で日曜日には仕事を休むというという習慣は「創世記」に起源を持っています。
③ ことわざ・文学
豚に真珠、目から鱗が落ちるなどのことわざも聖書が由来です。芥川龍之介や夏目漱石、遠藤周作なども信仰をテーマにした作品を残していますし、「カラマーゾフの兄弟」、「レ・ミゼラブル」、「ピノッキオの冒険」なども聖書無しには書かれなかった作品です。
④ 国旗・人名
世界中の国旗に十字架が見られますが、これは聖書の影響に他なりません。十字架は処刑器具ですが、キリスト教圏の国ではそのように理解されてはいません。キリスト教圏の国では人名も聖書に由来するものが多いと著者はいいます。例えば、ジョンは洗礼者ヨハネの英語読み、マイケルは旧約聖書に出てくる天使、ミカエルの英語読みで、ダニエルは旧約聖書に出てくる預言者ダニエル、、キリスト教圏の国では名前の付け方が基本的には聖書に依ることが多いようです。ここは大きく日本と違うところですね。例えば、ポールという人物がいたとすれば、使徒パウロのように育ってほしい、という願いを込めて名付けた、という事を意味しています。
⑤ 政治との関わり
中近東のパレスチナという狭い地域をなぜ、イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒が奪い合うのか。それは政治的な理由よりもむしろ、宗教的な理由が大きく関わっています。彼等は聖書などの聖典を根拠に生きる人々であり、起源数百年前にも遡る宗教的な闘争が現在においても噴出しているのです。
◯ユダヤ人(イスラエル人)の歴史〜聖書に何が書かれているか。
イスラエルの歴史は紀元前二十〜十八世紀あたりから始まります。当時のイスラエル人たちは遊牧民で、まだイスラエル人とは呼ばれず、「ヘブライ人」と呼ばれていました。
(ヘブライとは「過ぎゆく人」や「歩く人」を意味します。)
彼らがイスラエル人と呼ばれるようになったのは、紀元前十二世紀あたりに、「カナン」という土地に定着してからです。その後、イスラエル人たちの王国は南北に分裂し、南の王国は「ユダ」と呼ばれるようになりました。やがて北王国はアッシリアに平定、ユダが新バビロニアに滅ぼされて以降(バビロニア捕囚)、故国を失い、周辺諸国に離散した彼らは「ユダヤ人」と呼ばれるようになります。
カナンに定住→エジプトへの移住→モーゼに率いられ、シナイ山で十戒を授かる→他民族との戦闘に勝利して国家建設→国家の崩壊までの歴史は全て聖書に書かれています。(モーゼ5書、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記など)
本書ではさらに、国家が滅ぼされたことにより、ユダヤ教の信仰がより強まったことに言及しています。
全てを奪われてしまったユダヤ人たちにとって、最後に残ったのは堅い信仰でした。モーゼ以来伝承されてきた宗教的習慣を守ることによって自らのアイデンティティを確立していきました。
同じ民族同士ではヘブライ語を話し、聖書を読み、外国人と結婚しない、食物についてのきまり、割礼の風習、、
また、自分たちは神に選ばれた民族=選民思想を持ち、力強い救世主による祖国の奪還を望むようになりました。
この、ユダヤ教の「救世主願望」というのが特にポイントとなります。彼らにとっての「救世主像」とは、再びユダヤ人国家を建設して、強い力で国を治めてくれるリーダーなのです。
したがって、実際にイスラエルを発展させたダヴィデの様な人物の再来を望んでいるのであり、イエズスの事はキリスト(救世主)とはみなしていない事になります。ユダヤ人にとってのイエズスとはせいぜいユダヤ教の教師(ラビ)の様な存在に過ぎず、いわゆる新約聖書も聖書とは認めていません。
◯実在の人物、イエズス・キリストとはどんな人物か。
本書では、イエズス・キリストが行った行為、
磔にされるまでの経緯、そこからキリスト教の重要な教えについて述べられています。
まず、実在の人物、イエズス・キリストは何をしたのか。
簡単に言うと、悲しむ人を慰め、治癒を施し、貧しい者たちに目を向けたのだといいます。
苦しむことを救済し、希望を与える事は、本来は宗教者が行うべき事ではありますが、ところが、当時のユダヤ教の宗教関係者はこれを怠るどころか、全くかけ離れた存在であったといいます。
当時、ユダヤ教は、教養のない一般庶民はヘブライ語で書かれた聖書を読むことすら出来ず、教養ある人々のみが勤しむ宗教となっていました。かつ、ユダヤ教の律法学者は宗教的かつ社会的なエリートで、悉く律法に従って生きることを説き、彼らに逆らう事は出来なかったのです。
今となっては驚くべき事ですが、当時のユダヤ教社会においては、貧しい人々や病人、12歳に達していない子ども、女性、外国人などは差別
されており、「罪人」と扱われていました。。
イエズスはその様な社会から疎外された人々と多く接したのですが、イエズスのような聖書の知識を持つ人間がそのような人々と接する事自体、律法学者にとっては法律違反をしている事になるのです。
だからこそ、イエズスが次のように子どもを引き合いに出して神の国について述べたとき、聞いていた人々には動揺が生じたといいます。
「あなたたちによく言っておく。あなたたちは心を入れかえて幼な子のようにならなければ天の国には入れない。だから、自分を低くしてこの幼な子のようになる者が、天の国でいちばん偉いのである。」(「マタイによる福音書」第18章)
また、イエズスの言行の中で、もっとも有名とされる山上の垂訓も律法に抵触することになります。
「貧しき者は幸いである。天の国はその人のものだからである。」
◯イエズスの磔刑とその教え
イエズスは腐敗しきっていたユダヤ教社会にあって、いわば聖書の原点に立ち返り、行動をしてきましたが、結果的には律法学者たちから反感をくらい、罪を着せられ、当時の処刑方法でも最も残酷な十字架刑により殺されてしまいます。
本書において、イエズスが生涯にわたって言動で示してきたものは何だったかが言及されています。
イエズスの教えをたった一言で表すならば、「愛しなさい」である。新約聖書の全ての文字はこの一言で代用できるのだ。
(123頁)
福音書にもイエズスの言葉が記されています。
イエズスはこの世にかけているものは愛であると訴え続けましたが、残念ながら律法学者たちは聞く耳を持ちませんでした…
では、イエズスが述べて実践した愛とは一体なんでしょうか。
本書によると、それは無償の広大無辺な愛だといいます。自分を侮辱するもの、苦しめるものまでをも無条件に愛する態度。それほどの愛を示したとき、神の国はその場所、その関係において実現されるというのです。
本書では以上のような旧約、新約聖書の内容の他、伝道の歴史、キリスト教の発展まで詳しく著されています。
◯感想
本書を通じて聖書の概略はおろか、ユダヤ人の歴史、イエズス・キリストの生涯まで、かなり多くの事を学ぶ事ができたと思います。キリスト教で意味する「隣人愛」の概念や「原罪」の本当の意味等、自分の中で曖昧だった部分もかなりクリアになってきました。
著者の深い洞察も示されており、聖書についての新しい知見が得られる素晴らしい本だと思います。
キリスト教は普遍的な教えであり、世界宗教となったことにも納得です。ただし、その後の歴史において、ユダヤ教徒などがかつてキリスト教徒を迫害したのと同様に、キリスト教徒がユダヤ教徒を迫害したというのもまた事実です。
やはり、キリスト教の習慣を身につけるのと、キリスト教の教えを実践するのは全く違うという事なのでしょう。イエズスが「自分を憎んでいる人をも愛せよ」と説き、実際に行動で示したという事は分かっていても、実践するのは相当難しい事だと思います。
現代の日本では、いわゆるカルト教団によるテロリズムやお金儲け、執拗な勧誘をしてくる一部の団体などのせいで「宗教」というワードそのものが忌避されていると思います。しかし、何より、先ずは理解する事が大切でしょう。理解できないものは恐ろしいものです。本質的な部分が分かってくれば単なるテロ組織やカルト教団の区別もついてくると思いますし、そもそも何かを信じる上で必ずしも教団に属さなければならないなんていう事は無いのです。
仏教もキリスト教も哲学も良い考えは取り入れて行動に移していく、そんな柔軟な態度こそ重要ではないでしょうか。
生涯をかけても読み尽くす事は難しいかもしれませんが、聖書を読み進めてみたいです。