教養として学んでおきたいニーチェ(マイナビ新書)岡本裕一朗著など
教養として学んでおきたいニーチェ 岡本裕一朗著
今回ご紹介するのは、岡本裕一朗さんの「教養として学んでおきたいニーチェ」です。
本書は、単なるニーチェについての解説だけでなく、著者自身のニーチェに対する解釈も示されています。ニーチェの本を直接読んでも、すぐに理解するのは難しいです。
本書はポイントを絞って、わかりやすく、明快に解説されており、ニーチェを読むうえでかなり助けとなる一冊であると思います。
本書の内容の一部をご紹介します。
〇ニーチェのどこに魅力があるのか
フリードリヒ・ニーチェは19世紀ごろ、ニヒリズムの到来を予言した哲学者で、現在でも大きな影響を及ぼし続けています。
主張は極端な印象があり、奇人・変人という印象を持たれていますが、日本・世界でも人気のある哲学者で、その人気は衰えていません。
しかも、わたしたちは今や、知らず知らずのうちに、ニーチェ的に物事を考えています。
ニーチェは、次の2世紀(20世紀)はニヒリズムの時代であると予言しましたが、私たちはまさにニヒリズムの時代のど真ん中にいます。
かつては、真・善・美について、すべての人が同じ基準を持っているものと考えられていました。
しかし、近年は多様性が唱えられ、相対主義が流行しています。そういった意味で、
ニーチェの思想を学ぶことは、全く未知のことを学ぶことでなく、自分自身をはっきりと自覚することに繋がります。
〇ニーチェの生涯
ニーチェは1844年にドイツで生まれました。もともとは古代ギリシャ・ラテンなどの古典文学を専門としていて、古典文学の教授に認められ、24歳という若さでバーゼル大学員外教授へ就任、翌年には正教授に就任します。
デビュー作は「悲劇の誕生」という古典文献学の本でしたが、この本を自分を抜擢してくれた教授に送ると、それが酷評され、学会からも追放状態となってしまいます。
その後、35歳で退職し、昏倒してしまう45歳になるまで、精力的に著作活動を行いました。45歳でイタリアのトリノで昏倒し、錯乱状態となり、55歳という若さで肺炎となり死去します。
有名な「ツァラトゥストラ」、「曙光」、「権力への意志」、「この人を見よ」といった作品は35歳~10年間の間に書かれたものです。
〇仮面を愛する人物としてのニーチェ
ニーチェは「すべての精神は仮面を必要とする」という言葉を残しています。
ニーチェは、心理、知識の多面性、パースペクティブ(遠近法)を強調し、その場その場での「仮面」を愛するということを大切にしています。
ニーチェにとって、人はその場その場において仮面を変えているに過ぎず、ニーチェにとって、キャラ変という様なことは当たり前です。本当の自分なんていう発想はプラトン主義に過ぎないと言って批判します。
〇ニーチェの哲学を無意識にわれわれは受けいれている
「この世に絶対に良いもの、絶対に正しいもの、絶対に美しいものはあるか?」
と聞かれて、ニーチェは「そんなものは存在しない」と返します。
現代の人にとって、「人にはそれぞれの美しさの基準、正しさがあり絶対的なものは存在しない」という考えは受け入れやすいと思いますが、これを初めて理論的な形で打ち出したのがニーチェです。
〇ニヒリズム
ニヒリズムという言葉はニーチェ以前もありましたが、それを「絶対的な価値基準の喪失」という形で示したのはニーチェが初めてです。
ニヒリズムの時代においてニーチェは、「何のために生きているのか」という問いに対して、「生きる目的や意味などはない」と答えます。
当初、ニーチェはショーペン=ハウエルの影響から、生きること=苦しみであると定義し、その苦しみを芸術によって一時的に忘却するという解決策を考えていました。後にその方法はロマン主義であると批判し、生きること=苦しみでなく、生きること=同じことが永遠に繰り返される(永遠回帰)と考えるようになります。
この、意味がなく、同じことの繰り返しである永遠回帰の中で、打ち出したモデルが超人です。ニーチェは力の増大を重視します。永遠回帰(退屈)の中で、極限まで力の増大を極限させたのが超人というモデルです。
〇ニーチェの道徳観
ニーチェは、道徳を弱者が作り出したものであると批判しました。力で対抗できないため、弱者が集まり、強者を引きずり下ろそうとして、ルサンチマン(妬み)を持った人間が自己正当化を行った結果生まれたのが「道徳」であるとしています。
ニーチェは、道徳による自己正当化を最も嫌います。力と力の関係で勝負すべきなのに、力以外のものに訴えて、力ある者を引きずりおろそうとすることは自らを欺く許しがたい行為であると非難します。
力で対抗すべきなのに、それを偽り、自分には力がないと言い、力ある人を批判しながら、その裏でみんなで寄り集まって支配者になろうとする態度を批判します。(それをまた、隠れた権力の意志であるとニーチェは考えます、)
生物界のすべてのもの=力の増大を目指す、というのがニーチェの生命観です。そして、それを全面的に肯定しようとする発想が、超人に結実します。
力への意志、これは誰もが持っている。それを偽るからよくない、もっと自分自身を誠実に打ち出すべきだ、というのがニーチェの主張です。
〇 パロディとしてのニーチェ
ニーチェは独自の考えを打ち出してきたというよりは、元ネタを引き継ぎ、パロディにすることで「遊び」や「笑い」を生み出そうとしてきました。
「ルサンチマン」はフランス語ですが、元々は哲学者のキルケゴールが「妬み」という意味で使用しました。有名な「神の死」も18世紀の哲学者の間でしばしば用いられていた言葉であり、「超人」も古代ギリシャの時代からある言葉で、ゲーテのファウストの中でも引用されています。
〇神の死とニヒリズム
ニーチェは「神の死」について、キリスト教の髪を信仰することの他、絶対的な真理に対する私たちの信頼が消え去ってしまうことを強調して、「神の死」という言葉を使います。
かつては、何らかの悪事に対して、何故それが許されないのか、と問われたとき、「神が許さないから」「聖典に書かれているから」等々、それが禁止されている理由については神の保証がありました。しかし、その神の保証がなくなってしまうと、何が許されて何が許されないのか、ということについて、合理的に説明する根拠はなくなってしまいます。そういった世界こそがニーチェの言うニヒリズムの世界です。
神が死んだのであれば、人間が神に成り代わって基準を定めなければなりませんが、
多数決で決めたとしても、それは絶対的な真理にはなりません。
また、生きる目的や理由なども、それを合理的に説明できる理由はない、というのがニーチェが言うニヒリズムの世界です。
こうしたニヒリズムの世界で生きる方法としてニーチェが考えたのが永遠回帰の思想、そして超人です。
〇永遠回帰と超人
生きる目的や理由がないのだとして、では死ぬのか、と言えばそうはなりません。この無意味な毎日を生きていかなければなりません。そのために考えたニーチェの世界観が永遠回帰(全ては同じことの繰り返し)です。すなわち、毎日同じことが繰り返さえるだけの退屈な世界を肯定し、「それならばもう一度」と言えるか。退屈な毎日をもう一度繰り返すとしても、「もう一度やってこい」と言えるか。そのようにニヒリズムの世界の中にあって、生きる意味を肯定できる人物こそ、ニーチェが考えたモデルとしての超人です。
〇感想など
近代の西洋を代表する哲学者、ニーチェについて、平易な言葉で分かりやすく思想のポイントが解説されており、ニーチェの入門書として素晴らしい一冊であると思います。
ニーチェは神の死、超人、ニヒリズムといった言葉について、パロディとして使っていた、という解説をしている本はあまり多くはないと思います。ニーチェが独自のアイディアとしてではなく、元ネタから解釈を広げ、パロディとしてそれらの言葉を使っていたことを知ると、ニーチェを見る目が変わってきます。
また、ニーチェの思想には極端なものも多いことから、ニーチェの思想は誤解されやすい一面がありますが、ニーチェの生涯やバックグラウンドを知った上で作品を実際に読んでみると、解釈はまた違ったものになると思います。
本書で解説されている通り、ニーチェは古典文献学者としてキャリアをスタートさせており、ニーチェにとって理想の社会は古代ギリシャであり、ニーチェにとっての「強者」とは、古代世界の英雄を指していたと言われています。ニーチェは、既存の権力を擁護するために弱者を貶めようとした訳ではないというのは認識しておくべきポイントだと思います。
ニーチェといえば、永遠回帰と超人ですが、これまでと全く同じことが繰り返される=永遠回帰を受け入れ、生きる意味を肯定し、常に力を増大させようとする存在=超人を目指すということは相当に難しいことであると思いますし、ニーチェ自身もそれを認識していた様です。「ツァラトゥストラ」を読むと、超人を目指すことがいかに困難なことであるかということが何度も語られています。
生前はあまり本も売れず、評価されなかったニーチェですが、それは彼の思想があまりに時代の先を行き過ぎていたためだと思われます。ニーチェの予言通り、ニヒリズムの時代が到来しています。拠り所とすべき絶対的な価値観が失われてしまった中で、どのように生きていくべきか。多くの人がそのような悩みに直面しているからこそ、ニーチェは世界中で愛されている哲学者なのだと思います。