読書の森〜ビジネス、自己啓発、文学、哲学、心理学などに関する本の紹介・感想など

数年前、ベストセラー「嫌われる勇気」に出会い、読書の素晴らしさに目覚めました。ビジネス、自己啓発、文学、哲学など、様々なジャンルの本の紹介・感想などを綴っていきます。マイペースで更新していきます。皆さんの本との出会いの一助になれば幸いです。

ツァラトゥストラはこう言った(岩波文庫(下))ニーチェ の内容・考察

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ーよろこびはすべての事物の永遠を欲してやまぬ。

 深い深い永遠を欲してやまぬ。-

 

ツァラトゥストラ上巻は「超人」がメインテーマでしたが、第三部、第四部の下巻では、ツァラトゥストラの口から永遠回帰の思想が語られます。

 

永遠回帰

永遠回帰とは、人生のあらゆるものが永遠にそのままそっくり戻ってくることを指します。しかし、ニーチェは、その思想を受け入れることは簡単なことではないと語っています。ニーチェ自身は、この思想はあなたを「打ち砕くかもしれない」と語っています。

この永遠回帰の思想は、「忘れてしまいたい最悪の過去も戻ってくる」ことを指します。こんな過去はなかったことにしたい、という思いで頑張っている人は絶望してしまうかもしれません。

ツァラトゥストラ第三部において、いかにこの、「永遠回帰」の思想が受け入れがたいものであるかが語られています。

ツァラトゥストラ永遠回帰の思想を受け入れられずに苦しみます。この思想に向き合わなければならないと決意し、山に籠ります。洞窟の中で7日間も死んだような状態が続きます。

ああ、人間における最悪といってもなんと小さい!ああ、人間における最善といっても何と小さい!人間に対する憎悪-これがわたしの喉の中に這いこんだのだ。(中略)お前が飽き飽きしている人間、あの小さな人間たちは永遠に繰り返しやってくるのだ。

ツァラトゥストラは、「こんなにつまらない、卑小な人間たちが繰り返しやってくる、こんなにつまらない世界を生きなければならないのか!」と絶望しているのです。

 

〇なぜ、永遠回帰なのか

繰り返し絶望がやってくるような「永遠回帰」の思想を受け入れることにはどんな意味があるのでしょうか。

キリスト教は「あの世の物語」を人々に提供しました。しかし、ニーチェによれば、「神は死んだ」のですから、あの世の物語に代わって生きることを肯定するための新たな物語を作る必要がありました。それが永遠回帰の物語だったのです。

永遠回帰の思想は全ての「たら」「れば」を無効にします。「お金持ちに生まれてさえいれば」、「もっと良い容姿で生まれていれば」そんな無力感を無効にし、自分の人生を「よし、もう一度!」と肯定するように向かわせる。それが永遠回帰の思想の持つ意味です。

ルサンチマンーどうすることもできない無力感から来る復讐心の克服こそがニーチェのテーマでした。ニーチェルサンチマンの事を「無力から来る意志の歯ぎしり」と表現しています。

しかも、ニーチェはこうした無力を仕方なしに受け入れるだけではダメで、「私がそれを欲した」と言えるようにならなければならないと言っています。

これは相当難しい事ですが、苦しい状況下でも、どうやって悦びを汲み取っていくかを考えるしかないとニーチェは言っているのです。

 

〇祝福できないのなら、呪うことを学べ

永遠回帰を受け入れよ=過去のつらい出来事やトラウマも全て受け入れ、生を肯定せよと言われても、直ぐに状況を受け入れるのは難しいと思います。

どうしても、恨む気持ちから抜け出せない時、ニーチェは何と言ったか。驚くことに、

「呪いなさい!」といいました。

「祝福することのできない者は、呪うことを学ぶべきだ!」ニーチェ

辛かった出来事は、仕方なく受け入れるのではなく、「欲する」状態にならなければならない。しかし、直ぐに最悪の状況を受け入れられないのであれば、呪って叫ぶべきだとニーチェは言うのです。

永遠回帰や超人に比べてあまり注目されていないニーチェの言葉ですが、ここは非常に面白いポイントだと思います。

永遠回帰の思想を受け入れることは簡単ではありません。自分の鬱屈した気持ちを無理やり押し込めたり、ごまかしたりするくらいなら、「バカヤロー!」と思い切り叫んだほうがいい。非常に健全な考え方ではないでしょうか。

 

〇魂がたった一度でも幸福のあまり震えたなら

ニーチェは、「悦びを汲み取って生きよ!」と繰り返し述べています。ツァラトゥストラの言葉からも、それは読み取ることができます。

あなたがたはかつて一つのよろこびに対して「然り」と肯定したことがあるか?おお、わたしの友人たちよ。もしそうだったら、あなたがたはまたすべての苦痛に対しても「然り」と言ったことになる。万物は鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされているのだから。

 一つでも心からうれしいことがあって、それを肯定することができたら、ほかの苦悩もすべて引きつれて、人生を肯定したことになるとニーチェは言っているのです。

「ほんとうに素敵なことがあったなら、これからの人生でも素敵なことを汲み取って生きていったほうがよい。」

 〇ツァラトゥストラから読み取る永遠回帰

ツァラトゥストラはこう言った」本文からも、ニーチェ思想のメインテーマが「ルサンチマンの克服」にあること、永遠回帰の思想が垣間見れる箇所がいくつかの場面で登場してきます。

ルサンチマンの比喩として、「重力の魔」が登場します。(第三部)

重力の魔=ルサンチマンの象徴として描かれています。重力の魔はツァラトゥストラを嘲ってこう言います。

あなたは知恵の石だ!あなたは自身を高く投げた、しかし投げられた石はすべてー落ちる!

 重力の魔とは、「こんなことしても意味が無い」と思うような気持ちですね。

それに対比するような形で、ツァラトゥストラは「勇気」について次のように語っています。

なぜなら勇気はこう言うからだ。「これが生きるということであったのか?よし!もう一度!」

また、この第三部では人間→超人になったことを象徴するようなシーンが描かれています。

ツァラトゥストラは、道すがら一人の牧人に遭遇しました。牧人の口からは一匹の黒くて重たい蛇が垂れ下がっており、苦しくのたうち回っていました。ツァラトゥストラは、蛇をつかんで思い切り引っ張りましたが、全くうまくいきません。そこで、ツァラトゥストラは叫びました!

「頭をかみ切るんだ!」

そして、牧人は蛇の頭を力強くかみ切り、蛇の頭を吐き捨てました。

その後、牧人は光に包まれた者となりました。

 この「光に包まれた者」というのはルサンチマンを克服し、超人になったものの比喩と思われます。

また、永遠回帰の思想が明確に表れるのは、第三部です。

わたしはふたたび来る。この太陽、この大地、この鷲、この蛇とともに。新しい人生、もしくはよりよい人生、もしくは似た人生に戻ってくるのではない。わたしは、永遠に繰り返して、細大漏らさず、そっくりそのままの人生にもどってくるのだ。繰り返し一切の事物の永遠回帰を教えるために。繰り返し大地と大いなる正午について語るために。繰り返し人間に超人を告知するために。第三章 「快癒に向かう者」

この人生が絶え間なく繰り返される=永遠回帰の思想がここに表れています。

第四部では、永遠回帰の肯定という思想を受け入れたツァラトゥストラが描かれています。

あなたがたはかつて、ある一度のことを二度あれと欲したことがあるなら、「これは気に入った。幸福よ!束の間よ!瞬間よ!」と一度だけ言ったことがあるなら、あなたがたは一切がもどってくることを欲したのだ! 

あなたがた永遠の者よ、この世を永遠に、常に愛しなさい!そして嘆きに対しても言うがいい。「終わってくれ、しかし戻ってきてくれ!」と。なぜなら、すべてのよろこびは永遠を欲するからだ。

すべてのよろこびは自己自身を欲しているからだ。それは断腸の悲しみをも欲する!おお苦痛よ!心臓よ、避けるがいい!(中略)しかと学びなさい、よろこびは永遠を欲するということを。

よろこびはすべての事物の永遠を欲してやまぬ。深い深い永遠を欲してやまぬ!

 〇おわりに

ツァラトゥストラはこう言った」のエネルギーに満ちた書です。気になった方はぜひ手に取ってみてください。

箴言に満ちており、理解が難しい箇所もありますが、意味を考えながら読み進めていくのも面白いです。

 

ツァラトゥストラはこう言った(上)(岩波文庫)の内容・考察

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ツァラトゥストラはこう言った(上)ー フリードリヒ・ニーチェ岩波文庫

20世紀の哲学を語る上でニーチェは欠かせない存在です。「ツァラトゥストラはこう言った」はニーチェが晩年に書いた作品で、「超人思想」や「永遠回帰」といった、ニーチェの思想の核となる部分が書かれています。

 

【どんな本?】

ツァラトゥストラを通じて、ニーチェ思想の核となる「超人思想」や「永遠回帰」と言った思想が語られています。

因みに、ツァラトゥストラゾロアスター教の開祖、ゾロアスター(ザラシュストラ)のドイツ語読みです。

ニーチェがなぜ、ゾロアスターに仮託して自己の思想を描いたのか、本作の中身自体には影響しませんが、興味のある方は是非調べてみてください!

 

【どんな人におすすめ?】

哲学書は読んでみたいけど、あまり難しいものは嫌だ、長いものは嫌だ、という方、ニーチェ思想の核となる部分を理解したいという方におすすめです。

ツァラトゥストラはこう言った」は哲学書というよりは文学の様な形式をとっています。登場人物はツァラトゥストラ、森の聖者、牧人、綱渡師、道化師などいますが、ツァラトゥストラ以外は殆ど発言がありません。

ツァラトゥストラが語る内容=ニーチェ思想であり、ニーチェに思想に触れるための書であると言えると思います。

文体はルター版の聖書を基にしており、お世辞にも読みやすいわけではありません。ニーチェ自身、ツァラトゥストラの解説書にあたる本を執筆している程です。(この人を見よ、善悪の彼岸など。)それでも、文章の持つパワーは読んで実感

出来ると思います。

ストーリーも一応はあるのですが、後半になるにつれて、ほぼツァラトゥストラの発言内容のみになってしまうため、あまり気にする必要はないと思います。

 

【本の内容】

本の内容に若干触れてみたいと思います。

 

◯ 序説

ツァラトゥストラは30歳を超えた頃から、森の中で10年以上に渡り、隠遁生活にはいります。

そして、ある日、太陽に向かって語りかけます。

偉大なる天体よ!もしあなたの光を浴びる者たちがいなかったら、あなたははたして幸福といえるだろうか!

この十年というもの、あなたはわたしの洞穴をさして登って来てくれた。(中略)

しかし、わたしたちがいて、毎朝あなたを待ち、あなたから溢れこぼれるものを受けとり、感謝して、あなたを祝福してきた。

見てください。あまりにもたくさんの蜜を集めた蜜蜂のように、このわたしもまた、自分の蓄えた知恵がわずらわしくなってきた。

いまは、知恵をもとめて差しのべられる手が、わたしには必要となってきた。

わたしは分配し、贈りたい。人間のなかの賢者たちに再びその愚かさを、貧者たちに再びおのれの富を悟らせてよろこばせたい。

こう語った後、ツァラトゥストラは再び山を下り、市民の中に入っていき、彼らに語りかけることを決意します。

山を下るツァラトゥストラは道中、山の中で永い隠遁生活を送る翁と出会います。

この翁は山を下ろうとするツァラトゥストラを引き止めようとします。

ツァラトゥストラは翁に対して、森の中で何をしているのか尋ねると、翁は、「歌を歌い、泣き、笑い、唸ることによって、神を讃えているのだ」と答えます。

ツァラトゥストラは翁に一礼して、その場を立ち去ります。

ツァラトゥストラは一人になった時、内心訝りつつ、こう言います。

いやはや、とんでもないことだ、この老いた聖者は、森の中にいてまだ聞いていないのだ。神が死んだということを。

 

●広場にて

森を後にしたツァラトゥストラは、最初の街へと辿り着きます。街の広場には多くの人々が集まっており、当日は綱渡り師が綱渡りのパフォーマンスを行うことが予告されております。

ツァラトゥストラは民衆に向かって次のように語りかけました。

人間は克服されなければならない或物なのだ。あなたがたは人間を克服するために何をしたというのか?(中略)

人間から見れば、猿はなんだろう?哄笑の種か、あるいは恥辱の痛みを覚えさせるものだ。超人から見たとき、人間はまさにそうしたものになるはずなのだ。

そして、さらにツァラトゥストラは続けます。

わたしはあなたがたに超人を教えよう!超人は大地の意義なのだ。あなたがたの意志は声を発して、こう言うべきだ。「超人こそ、大地の意義であれ!」と。

大地に忠実であれ。そして、地上を超えた希望などを説く者に信用を置くな。(中略)

あなたがたが体験できる最大のものは、何であろうか?それは、「大いなる軽蔑」の時である。

あなたがたがあなたがたの幸福に対して嫌悪感をおぼえ、同様に、あなたがたの理性にも、あなたがたの徳にも嘔吐を催す時である。

以上のようなツァラトゥストラの最初の演説は、全く民衆の心には響きませんがツァラトゥストラはさらに続けます。

人間は、動物と超人との間に張りわたされた一本の綱なのだ。ー深淵のうえにかかる綱なのだ。

渡るのも危険であり、途中にあるのも危険であり、ふりかえるのも危険であり、身震いして足を止めるのも危険である。

人間における偉大なところ、それはかれが橋であって、自己目的ではないということだ。

(中略)わたしが愛するのは大いなる軽蔑者たちである。なぜなら彼らは大いなる尊敬者であり、かなたの岸への憧れの矢であるから。

そして、軽蔑すべき人間たちーおしまいの人間たちのことについても語ります。

かなしいかな!やがて人間がもはやその憧れの矢を、人間を超えて放つことがなくなり、その弓の弦が鳴るのを忘れる時がくるだろう!(中略)

もはや自分自身を軽蔑することのできないもっとも軽蔑すべき人間の時がくる。(中略)

愛とは何か?想像とは何か?あこがれとは何か?星とは何か?」ー「おしまいの人間」はこうたずねて、こざかしくまばたきする。」

●綱渡り師

そうしているうち、綱渡り師のパフォーマンスが始まりました。二つの塔の間に渡された綱を綱渡り師が渡っていきました。

あとゴールまでもう一歩のところで、驚くべきことが起きます。綱渡り師の後ろから、道化師ともおぼしきもう一人の綱渡り師が後を追いかけてきたのです。その道化師は渡っていた綱渡り師に罵声を浴びせた上、綱渡り師を飛び越しました。

先に渡っていた綱渡り師はバランスを崩して広場に落下してしまいます。

民衆は逃げ出し、広場には誰もいなくなってしまいました。

綱渡り師はツァラトゥストラの側に落下していきます。

ツァラトゥストラは僅かに息がある綱渡り師に次

あなたは危険をおのれの職業とした。(中略)いまはあなたはあなたの職業によって滅びる。それに報いてあなたを手ずから葬ってあげたい。

 

【考察など】

上巻は主に「超人」思想がメインに語られています。引用した文章からも分かると思いますが、ニーチェは超人のことを「大地」、「人間を克服した或物」、「あこがれの矢」などさまざまな形で表現をしていますが、具体的に何であるかを明示してはいません。

敢えて定義するとすれば、「生を肯定し、あらゆる嫉妬や憎しみから解放され、力強く生きる人間」といったところでしょうか。

綱渡り師のエピソードは一種の比喩になっていると思います。超人を目指すことは容易ではないということの例えです。

確かに、神に頼ることなく、大地に地をつけて自分の力で歩いていくことは容易なことではありません。

ツァラトゥストラから何を学ぶか、超人とは何なのか、100人が読んだら100通りの解釈が可能だと思います。それほど深淵な本です。ニーチェが書く文章のエネルギーを感じたい方は是非読んでみて下さい!

人工知能と経済の未来(文藝春秋)(井上智洋著)

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人工知能と経済の未来 井上智洋著


~2030年雇用大崩壊〜

〇どんな本?
本書はAIの発達とこれからの雇用・経済について書かれた本です。
本書では、AI(Aeticicial Intelligence)発達に関するこれまでの歴史を踏まえ、これからのAIの発展が経済・雇用に与える影響について、考察しています。
AIの開発は、私たちの想像以上のスピードで進行しています。90年代から徐々に進み始め、1997年にはIBM社が開発した「ディープブルー」がチェスの世界チャンピオンを打ち負かしました。2000年代にはルールが複雑なため、コンピュータでは人間に勝てないだろうと予想されていた囲碁の分野でも、アルファ碁が当時の囲碁世界チャンピオンを打ち負かし、当時は話題となりました。日本でも、将棋の分野でAI対プロ棋士の七番勝負が開催され、プロ棋士の圧勝に終わりました。特に将棋におけるプロ棋士とAIの対局の中でAIは数々の独創的な手を披露しました。

 

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【コンピュータソフト(ponanza)と佐藤天彦名人(当時)の対局の様子。】

Ponanzaは数々の独創的な一手を生み出し、名人に圧勝した。


この影響で、日本の将棋界においては、AIを用いた手筋の研究が盛んになり、今ではプロ棋士がAIを用いて研究を行っていくことも一般的となっています。

AIの進歩は卓上ゲームの分野にとどまりません。私たちが手にしているiPhoneに搭載されているSiri、Windowsに搭載されているCortana、自動運転技術や人間と会話をするロボット、家電の分野など幅広く進出してきています。一見、AIの発達は好ましいように思えますが、そう楽観視できない側面もあります。それは雇用との関係です。
将来、あらゆる仕事がAI、あるいはAIを搭載したロボットに代替していくかもしれません。 


しかも、それは「今世紀の間」に起こるという様な悠長な話ではありません。本書では早ければ2030年から徐々に進行し、2045にはあらゆる仕事がAIに代替されてしまっているだろうという悲観的(?)な予測を立てています。さらに、驚くべきことに、代替されるであろう仕事の範囲にはほぼ例外はありません。オックスフォード大学などの研究も引用されていますが、それによると、将来AIやロボットに代替される可能性の高い職業の中には一般的な事務労働、飲食業や製造業に加え、税理士などの一部の知能労働、驚くことには漁師まで含まれています。このような技術の発達により雇用が失われる事態を「技術的失業」と呼びます。

 

もし、労働はロボットやAIに任せて人間はバカンスを楽しむような状況になればユートピアですが、雇用が奪われるにも関わらず、物価はそのままだったら悲劇的な状況になるでしょう。本書では、それに対する解決策も提示しています。
AI関連や、AIと経済・雇用に関する興味を持っている方にはおすすめの本です。

 

本書を読んでいく上でのキーワードを紹介したいと思います。

 

◯技術的失業


AIが発達していくに伴い、問題となるのが技術的失業です。そもそも、「技術的失業」とは何でしょうか?

「技術的失業」とは、「銀行にATMが出来て、窓口係が必要なくなり仕事を失う」とか、「音楽ダウンロード販売の普及により、街角のCD販売店が廃業に追い込まれ従業員が職を失う」といった失業のことです。(26ページ)
過去にも、こうした技術的失業が生じるのではないか、という懸念が生じたことがあります。18Cにイギリスで始まった、産業革命です。

例えば、蒸気機関を応用して作られた紡績機(糸を紡ぐ機械)が導入されるようになると、一人の労働者が綿花を糸に紡ぐ時間は500時間→3時間に短縮されました。

産業革命時の綿工場の様子】

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紡績機の導入は労働力を減らすため、自分の職が奪われるのではないかと考えた手織工や一部の労働者は1810年代、ラッダイト運動と呼ばれる機械打ち壊し運動を起こしました。

しかし、その時の技術的失業は一時的・局所的なものに過ぎませんでした。大量生産が出来る様になった結果、安く供給できるようになり、需要も増大したからです。

AIが人間の知能を超えて雇用が奪われるようになると、再びこの「技術的失業」が顕在化するのではないかと言われています。

 

◯なくなる職業

本書では、技術的失業の脅威を示している本として、アメリカの経済学者、エリック・ブリニョルフソンとアンドリュー・マカフィーによる「機械との競争」を紹介しています。

「機械との競争」では、雇用減少の被害を被るのは中間所得層であるとしています。中でも、「事務労働」が1番代替されやすく、ITの知識を持った労働者とそうでない者との間で格差が非常に大きくなると予測しています。

 

◯シンギュラリティ

コンピュータが全人類の知性を超える未来のある時点のことをシンギュラリティ(技術的特異点といいます。

アメリカの著名な発明家、レイ・カーツワイルが、技術に関する未来予測の書、「シンギュラリティは近いー人類が生命を超越するとき」(2005年)で紹介したことで、世界的に有名になりました。カーツワイルは、その中でシンギュラリティは2045年に訪れると述べています。2045年頃には、家電量販店で買える10万円くらいのPC一つで、全人類の脳と同等の情報処理が可能になると言われています。

 

カーツワイルはまた、GNR革命(G=Genetics(遺伝子工学)、N=Nanotechnology(ナノテクノロジー)、R=Robotics(ロボット工学))がシンギュラリティの到来を可能にすると述べています。

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アメリカの天才発明家 レイ・カーツワイル

 

Gの発達により、人造肉が可能になり、NとRの発達により、治療用ナノロボットの開発が可能になります。

また、さらに、SFチックに聞こえますが、人間の意識をコンピュータ上に移し入れることが可能になるといいます。そのように、コンピュータ上に人間の脳とそっくりなソフトウェアを再現する事を、マインドアップローディングといいます。

 

ディープラーニング

20世紀まで、コンピュータは人間が予めパターンなどを教え込んでおかないと事物を認識できませんでした。ところが、2006年、イギリスのAI研究者、ジェフリー・ヒントンが考案したディープラーニングがブレイクスルーを引き起こし、AI研究におけるメインストリームとなっています。

ディープラーニングとは、簡単に言えば、AIが予め人間が情報を教え込んでいない状態でも、自らの試行錯誤によってパターンを見出し、世界を認識していくような技術です。

今はまだ言語を自分で理解して操るまでには至ってはいませんが、言語の壁を突破した先に実現するのではと言われているのが、「汎用AI」の実現です。

 

◯汎用AI

汎用AIとは、あらゆる課題、目的に対応できるようなAIの事を指します。チェスや将棋のみならず、人間との会話や家事をすることもできるようなAIです。

本書では、汎用AIの実現のため、二種類の研究が進んでいると書かれています。

脳エミュレーション

②全脳アーキテクチャ

です。

①の全脳エミュレーションは、人間の脳の神経系を丸ごとコピーして再現しようというもので、

②の全脳アーキテクチャは、脳の各部位(海馬や大脳新皮質など)の機能をプログラムとして再現し、後で結合する方法です。

①は途方もなく時間がかかる事が予想されるため、現在のところ、②の全脳アーキテクチャ方式による汎用AIの実現が濃厚です。

今までの産業革命は機械化により、生産を効率化し、供給量を増やし、特に工業分野で雇用が減少せていきましたが、これからはサービス業でも効率化がどんどん進み、労働の需要が減っていく、すなわち技術的実業が大量に生じてくると予測されています。

著者は、汎用AIが実現すると、サービス業も徐々に人間を雇用する代わりにAIやロボットを導入するようになり、

①クリエイティビティが必要な仕事

(例:作家、芸術家など)

②ホスピタリティが必要な仕事

(例:介護士、看護士)

③管理、マネージメント系の仕事

を除き、徐々に労働者の需要が減っていくとの予測をしています。

しかも、それらの職業も安泰というわけではなく、その中でも高いスキルを持った人ばかりに需要が集中していくといいます。

また、やや自虐的に、自らの教授という職業もAI教授なるものが現れたら失くなってしまうかもしれないと予測しています。

そして、汎用AIの登場は2030年ごろであり、2045年ごろには全人口の1割程度しか働いていないという驚くべき未来が予測されています。

 

第四次産業革命

現在は、コンピュータの台頭による第三次産業革命から、AI、ロボット中心の第四次産業革命への移行期にあたると著者は述べています。

内燃機関やモーターを中心に第二次産業革命が起きましたが、その時、ヨーロッパとアジア・アフリカは完全に出遅れたため、ヨーロッパとそれ以外の格差は大きく広がりました。第三次産業革命は90年代のwindows発売に象徴される、インターネット革命で、今、私たちはまさにこの時代の中にいます。そして、これからAI、ロボットの研究によって来るだろうと言われているのが第四次産業革命です。

この第四次産業革命の覇権をどこの国が握るのか、(アメリカ?中国?ドイツ?日本?)競争は熾烈を極めているところです。

雇用が減ってしまうとしても、この波に乗り遅れてしまうと、覇権を取った国との間では天と地ほどの差が生まれ、経済成長など見込めない状態に陥る可能性があります。

そのため、技術的失業が増えるとしても、AI研究をやめる事ができない事情があるのです。

 

◯BI(ベーシックインカム

本書では、2030年頃から汎用AIが登場し、2045年ごろには全人口のうち、労働者が1%しかいない未来を想定しています。

しかし、仮にそうなった場合でも、人間にとってユートピアが実現する訳ではありません。

物価が変わらない場合には、殆どの人にとっては悲劇となります。

著者は、そのような場合に備え、BI(ベーシックインカム)を導入すべきと主張しています。

 BIとは、最低賃金保証を指します。生活保護の様に対象者を絞るのではなく、全ての国民に均一的に金銭を支給するというものです。

その分の財源は税金で賄うべし、としています。

この点については、社会全体での議論が必要であると思います。所得税を財源とすれば裕福な人は反対しますし、消費税が上がれば貧しい人ほどより困窮する事態になりかねないからです。

 

◯おわりに

 

 シンギュラリティがいつ来るのか、非常に興味深いところです。この本が出版されたのが2017年ということを考えると、レイ・カーツワイルの予言は予想よりも早く実現するかもしれません。ここ数年、AIは私たちの想像を超えるスピードで発達しているように感じます。自動運転の精度は年々高まっており、国内で販売される車の全てが自動運転機能を搭載する時代もそう遠くはないと思います。また、ディープラーニングにより、人の顔を識別する技術は格段に向上しています。十年前までは、コンピュータの人の顔を見分ける能力は非常に低く、とても任せることができない状態でしたが、今や人の目よりもAIの方がよっぽど信頼できます。


 もし、あらゆる仕事がAI、ロボットに代替されていくということが起きれば、第二次産業革命の時のように、AI・ロボット打ち壊し運動(ラッダイト運動)が起こるかもしれません。
 個人的な実感としては、以前、回転寿司店に行った際、pepper君が受付をやっているのを見て、非常に脅威を感じたのを覚えています。pepper君は疲れることがありませんので、365日出勤可能ですし、職場に不満を感じることもありません。仮に自分が経営者だったら、人件費を抑えるためにアルバイトを募集する代わりにpepper君を購入するかもしれません。


 AIの研究と合わせて、雇用政策や金融政策も考えていく必要がありそうです。 レイ・カーツワイル人工知能と人間が融合したトランスヒューマニズムの到来を予期しており、その意味ではAI発達の流れを楽観的に捉えています。人工知能が人間の脳と結合すれば、人間は神のような知性をもった動物にアップグレードするかもしれません。しかし、それは先進国の、ごくわずかな富裕層のみに限定されるでしょう。そうすれば格差はかつて人間が経験したことのないレベルにまで増大するものと思われます。何せ、これまで人間同士の格差に過ぎなかったものが、AIによりアップグレードされた超人と人間との格差になる訳ですから。
(このあたりに興味のある方は是非、ユヴァル・ノア・ハラリ著「ホモ=デウス」を読んでみてください。)しかしそもそも、AIと人間との融合が上手くいかない可能性も高いと思います。人間の思考を自在にコントロールするために悪用される可能性も否定できません。トランスヒューマニズムにつきましては、もっと議論されるべき問題であると思われます。  


 本書では、AI、ロボットを中心とする第4次産業革命に伴う雇用崩壊への解決策として、BI(ベーシックインカム)の導入が推奨されております。しかし、 BIの導入しかないとしても、議論は必要でしょう。富裕層は反発するでしょうし、個人的にはマイナンバーと銀行口座が紐付けされるといったことには強い抵抗を覚えます。BIの導入により、第四次産業革命がユートピアになるとする本書の見方はやや楽観的過ぎるとも思えますが、生活保護では持たないというのは本書の言う通りであると思います。

 

いずれにしても、今のうちから社会全体で議論していくことが大切であると思います。

 

 

「鼻」(芥川龍之介)のあらすじなど

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芥川龍之介の「鼻」は芥川作品の中でも有名な作品です。ユーモラスな物語の中に人間の醜悪な部分が描かれた芥川らしい作品だと思います。あらすじなどを紹介していきます。

 

〇 「鼻」について

芥川龍之介は「今昔物語集」をベースに書いた作品を多く残しており、この「鼻」も今昔物語集の中の説話が基になっています。

芥川龍之介は学生時代、夏目漱石にこの「鼻」を絶賛され、華々しく文壇にデビューしています。

 

〇 「鼻」の概要、あらすじ

登場人物:禅智内供(ぜんちないぐ)

     50歳を超えた京都の僧侶。あごまでぶら下がる大きな鼻の持ち主。

時代:平安時代

~あらすじ~

池の尾の内供・・池の尾(京都)の僧侶である禅智内供はあごまで垂れ下がる縦に長い

        鼻を持っていた。長さ15cm~18cmほどで、「ソーセージのように」

        ぶら下がっていた。

 

内供は鼻のことを気にはしていたが、それを他人に悟られることのないよう、気にしないふりをしていた。内供は寺に通う人、経典の中にも自分と同じような長い鼻を持つ人を見つけることはできなかった。

 

ある日、弟子から長い鼻を短くする方法を聞く。

 

その方法とは、

①鼻を茹でる

②鼻を踏む

③鼻から出てきた粒の様なものを毛抜きで抜く

 

の3ステップだった。

 

内供がその方法通りに鼻を茹で、弟子に鼻を踏んでもらい、鼻から出てきた粒の様なものを毛抜きで抜くと、垂れた鼻が縮み、上唇から上までの長さになっていた。

 

しかし、短くなった内供の鼻を見て、笑う人が出てきた。しかも、鼻が長かったころよりも馬鹿にされているような気がする。

 

内供は内心こう思う、「人間は他人の不幸には同情するが、それを克服すると、物足りなくなった他人は再び同じ不幸に陥れてみたくなるのだ」と。

 

内供は、鼻が長いころよりも却って不快な気分になり、弟子にも八つ当たりするようになり、前の長い鼻に戻りたいと思うようにさえなっていた。

 

そして、ある夜、内供の鼻はむくみ始め、朝起きると、元に戻っていた。

 

内供は安堵感に包まれ、こう思った。

 

「もうこれで誰も自分を笑わない。」

 

〇 考察

「鼻」のストーリーは、コンプレックスに感じていた鼻を大真面目に小さくしようとして、せっかく小さくなったにも関わらず、結局は元通りになったことを喜ぶ、という内容です。

短くなった内供の鼻が一層人々が笑われるというのは何とも後味の悪いストーリーですね。笑われたときの内供の感情は、「人間は他人の不幸には同情するが、それを克服すると、物足りなくなった他人は再び同じ不幸に陥れてみたくなるのだ」というセリフに集約されていると思います。

つまり、「人の不幸は蜜の味」ということですね。近年、脳科学の分野においても、人間にはこのような心理的特性が備わっていることが明らかにされています。人はポジティブな情報より、ネガティブな情報に反応する癖を持っているようです。

 

このことは、祖先が弱肉強食の世界、厳しい自然環境の中で生きていたことと関係していると思います。当時は猛獣がどこにいるか、これから豪雨が来るかといった情報をいち早く察知することが生存のために極めて重要であったに違いありません。

 

ニュースなども人間の、この本能的な特性を理解した上で報道を行っています。人間は楽しいニュースよりも、「〇〇県で殺人事件が発生した」「〇〇市で火災が発生」といったニュースにより強い関心を示すのです。

 

文明が始まって以降、人間は人間自身を他の動物たちとは一線を画す、特別な存在であると考えてきました。(聖書では、神は度々人間に語りかけてきますが、他の動物に語りかけることはありません。)その人間中心主義の根本にあるのは、「動物は本能にしたがって行動するが、人間には理性があり、理性的な行動を取ることができる。」という理性中心主義であると思います。

 

しかし、近年の脳科学や心理学の研究は、人間の行動はかなり本能的な部分に依っていることを明らかにしてきており、そのような人間中心主義の神話は打ち壊されようとしています。

 

聖書や西洋哲学が日本にもたらされ、人間の理性や自由が高らかに謳われ始めた時代、芥川は人間の持つ醜い部分を暴き出すかのような作品をたくさん遺しました。

 

自分が信じたくないこと、考えたくないこと、知りたくないことに対しては懸命に目を背けたくなるものです。人間にとってそれは一種の自己防衛本能なのかもしれません。しかし、人間の美しい部分だけではなく、醜い部分についても注目することで真の人間理解ができると思います。人間はある種自らの内面に矛盾した感情を抱えており、複雑だからこそ、それを描く文学作品にも深みが生まれます。

また、ポジティブに考えると、人間には醜い部分があるからこそ、美しい部分が際立つとも言えるのではないでしょうか。むしろ、醜悪な部分をひた隠しにし、美しい面だけを見せようとする方がより醜悪であると言えるかもしれません。

芥川龍之介の作品は、そのような風潮に対するアンチテーゼとして読むことができると思います。

また、「鼻」の中で禅智内供を笑う人々を反面教師にすることも出来るでしょう。困難を乗り越えた人に対しては称賛すればこそ、笑うことは避けたいところですね。。

「鼻」は夏目漱石が激賞しただけあって、芥川龍之介作品のすばらしさが凝縮されたような作品です。短編で気軽に読める点もすばらしいです。ぜひご一読ください!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

寝ながら学べる構造主義 内田樹(文春新書)

寝ながら学べる構造主義 内田樹 (文春新書)

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本書は、構造主義の入門書です。タイトルの通り「寝ながら学べる」ほど易しいとは思えないのですが、全体的として平易な言葉で、非常にラディカルな内容が書かれていて非常に刺激的な書です。フーコーやレヴィストロースといった構造主義の哲学者の古典にも触れてみたいという気持ちに自然とさせてくれる、かなりおすすめの本です!

 

構造主義とは…??

この本の主題となっている「構造主義」とは、20世紀の現代思想の一つであり、具体的に言えば次のような考え方です。

「私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の所属する社会的集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」、「感じさせられ」、「考えさせられている」。そして、自分の所属する社会的集団が排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題になることもない。」(25頁)

 

つまり、人間は自由に思考したり行動したりしているようで、実は思考や行動の幅は属する社会集団によって、「構造的」な問題として決定づけられている、という思想が構造主義の中身となります。

この考え方は人間の自由や平等を掲げるような思想と比べてロマンが無いことは確かです。何せ、自分の今までのあらゆる意思決定は、必ずしも自由に行ってきたものではなく、周囲の環境などからも不断の影響を受けており、結局のところ社会集団が受け入れたものの範囲内のものでしかないと言われてしまう訳ですから。

 

例えば、「自分」で「自由」に決めてきた進路や就職先について、構造主義者から「あなたは自由に進路を決めたつもりでいるかもしれないが、実はあなたは生まれた国、地域、家庭などから構造的な影響を受けており、その社会集団が選択的に選び取った枠組みの中でしか思考することができない。したがって、必ずしも自分の自由意志で決めたとは言えないよ。」と言われたらどのように思うでしょうか。きっといい気分はしないと思います。

 

しかし、この本の著者である内田樹さんによれば、私たちは今、ポスト構造主義の時代に生きていると思います。「ポスト構造主義」の時代とは、構造主義の思考方法が深く私たちの中に浸透したが故に、あらためて構造主義の書物を読んだり、思考方法について学んだりしなくても、その発想そのものが私たちにとって自明のものとなってしまった時代のことを指します。

そして、その「自明のもの」、「常識」として認識されている思考方法や感受性のあり方がどのような歴史的背景の中で育まれてきたものなのかを明らかにすることこそ、学問が果たす役割だといいます。

 

また、構造主義の思考が私たちにもたらしてくれた創見は以下のようなものです。

「私たちにとって、ナチュラルに映るものは、私たちの時代、私たちの住む地域、私たちの属する社会集団に固有の「民族誌的偏見」に過ぎない。」

いまの私たちにとって「ごく自然」なものと思われるふるまいは、別の国の、全く異なる文化的バックグラウンドを持っている人々からすれば、非常に奇怪なものに映ることはよくある話です。(だからこそ、「ここがヘンだよ日本人」といったコメントはほとんど無限に出てくることになります。)

また、時代と地域によっても思考の枠組みは全く異なります。今の現代人に、中世の十字軍兵士の気持ちを心から理解し、共感できる人が一体どれだけいるでしょうか。

(中世の騎士は十字軍の兵士となって、異教徒であるイスラム教徒を殺すことこそ最大の名誉であると考えていたはずです。そして、万が一そこで殉教しても天国に行けると考えていたはずです。いずれにしても、当時の彼らの感覚を理解し、共感することは現代人にとっては相当難しいと思います。)

 

それどころか、同じ日本人であっても、世代が変われば同一の事象についての評価は一変します。今の私たちが常識と捉えていることも、数百年後の人たちからすると、「クレイジーな考え方だ」と思われる可能性も十分にあり得ます。

つまり、構造主義の考え方は「私たちの常識は、それほど普遍性を持つものではないかもしれない。自分の「常識」を他人に拡大適用しない節度を持つことが大切だ」という考え方をもたらしてくれました。

 

一見、自由や平等を掲げる思想と比べて派手さやロマンは無い思想ですが、多角的に物事を見る上では非常に有効な思考の在り方であると思います。構造主義的な視点を持つと、「待てよ、自分が常識と思っていることは、相手にとってはそうではないのかもしれない」と一度立ち止まって考えることができるからです。

本書では、構造主義の土台をつくった人物として、マルクスフロイトニーチェの3名が紹介されています。

 

構造主義前史~先人たちはこうして地ならしした~

本書では、構造主義の源流を作り出した人物として、まず、カール・マルクスが紹介されています。

 

マルクスの功績

→社会集団が歴史的に変動していくときの重要なファクターとして、「階級」に注目。

 人間は「どの階級に属するか」によって「ものの見方が変わってくる」。この、帰属

 階級によって違ってくる「ものの見方」=階級意識

人間の中心に「普遍的人間性」というものが備わっているのであれば、どんな社会的地位にいようと、ものの見方や考え方は同じになるはずです。ところが、マルクスはそのような伝統的な人間観を退け、「人間の個別性を形づくるのは、その人が何ものであるかではなく、何ごとをなすか」によって決定されると考えました。

つまり、自己意識を持った主体がはじめにそこにあるわけではなく、生産=労働に身を投じ、そこで「作り出した」意味や価値によっておのれが何者であるかを回顧的に知る。主体性の期限は主体の「存在」ではなく。主体の「行動」のうちにある。この考え方が構造主義の根本となる考えとなります。

マルクスの創見

人間は自由に思考しているようで、実は階級的に思考している。

 

フロイトの無意識の部屋

フロイトは、人間の思考を規定するものについて、マルクスが「生産」という外側の活動に目を向けたのに対し、一番内側に目を向けました。

人間が直接知覚できない心的領域=無意識がその人の意思に関わらず判断や行動を支配している、フロイトはそのように考えました。

 

つまり、フロイトは、人間は自分が自由に思考しているつもりでいるが、「実はどのように思考しているかを知らないで思考している」ことを看破しました。

抑圧=「ある心的過程を意識するのが苦痛なので、それについて考えないようにすること」のメカニズムについて、フロイトは、「二つの部屋」とその間にある番人の例えを用いて説明しました。

 

それは、人間の心理のうちには意識と無意識とを隔てる部屋があり、その間には「番人」が立っている。そして、意識することが苦痛であるような事柄については、番人が無意識の部屋に押し戻してしまう、というようなものです。

このようなフロイトの無意識の発見が構造主義に与えた知見は以下のようなものです。

人間は、「自分は何かを意識化したがっていない」という事実を意識化することはできない。

 

ニーチェ大衆社会批判

ニーチェは、「私たちにとって自明と思えることは、ある時代や地域に固有の「偏見」に他ならないということを激しく批判しました。

さらに、私たちは「自己意識」を持つことができない存在だ、とも厳しい口調で語ります。なぜ、ここまでの批判をするようになったのでしょうか。

ニーチェは、もともと古典文献学者としてスタートした人物です。古典文献学という学問は、研究者にある特殊な心構えを要求します。それは、過去の文献を読むに際して、「いまの自分」が持っている情報や知識をいったん「カッコに入れ」ないといけないということです。そうしないと、現代人には理解や共感もできないような感受性や心性を価値中立的な仕方で忠実に再現することはできないからです。

現に、「悲劇の誕生」を書きつつあるニーチェはほとんど古代ギリシャ人になりきって感動し、うち震えています。

 

「完全に理想的な観客とは、舞台の世界を美的なものとしてではなく、生身の肉体を備えた経験的なものとして感受することだというのである。おお、このギリシャ人たちは!」(悲劇の誕生

ニーチェは古典文献学者としての経験を踏まえ、異邦の、異文化のうちにある人々の具体的な体験を「その身になって」内側から想像し、追体験することのうちに「自己意識」獲得の可能性を求めました。

 

つまり、そのことで、「いまの自分」から逃れ出て、異他的な視座から自分を振り返ることによって「自己意識」を獲得できると考えたのです。

遠い太古の、異郷の人々の身体に入り込めるようなのびやかで限界を知らない身体的な知性だけが適切な「自己意識」を可能にするだろうと考えました。

そうであるとすると、ニーチェはそのような「のびやかな知性」の在り方が損なわれていることを批判したのです。

 

ニーチェにとっては自分たちにとってナチュラルと思われる価値判断や真善美に関する判断を歴史的に形成されてきた偏見であるとはみなさず、永遠に普遍であると信じ切っている同時代人たちがとんでもない愚か者に見えたのでした。

その後、ニーチェ大衆社会の到来を予見し、徹底的に批判していくことになります。

ニーチェ構造主義に与えた影響は、「過去のある時代における身体感覚や価値観、感受性のようなものは、いまを基準にしては把握することができない」というものです。

この考え方はM.フーコーにしっかりと継承されることになりました。

 

ソシュールフーコー、バルト、レヴィストロース

 

詳しくは、本書を読んでいただきたいと思いますが、前述の3人に続く3名の哲学者として、「言語学」という観点から、私たちの経験(身体感覚さえも)は、私たちが使用する言語によって非常に深く規定されていることを見出したフェルナンド・ソシュール

「監獄」や「狂気」など、人間社会の諸制度について、それが形成された「生成の現場」まで立ち返ることによって社会制度についての歴史的な常識を覆し、「知の考古学」を実践したミシェル・フーコー

 

最初にテクストを読む主体があって、私たちはそれを自由に解釈している訳ではなく、テクストと読者との間には「絡み合いの構造」があり、テクストが私を「読める主体」へと形成するというテクスト理論を打ち出したロラン・バルト

 

文化人類学者として、未開社会の親族構造の研究を通じて、西欧的な歴史観を批判し、実存主義に対して死亡宣言を下したレヴィ・ストロース

 

フロイトに還り、精神分析を通じて、無意識的なものを意識的なものに翻訳しようと試みたジャック・ラカン

 

ソシュール構造主義の始祖として、フーコーレヴィ・ストロースロラン・バルトラカン四銃士として紹介されています。いずれの哲学者の思想も非常に独創的で非常に興味深いです。ぜひ読んでみてください!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「星の王子さま」のあらすじ、感想など(新潮文庫)サン=テグジュペリ著

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星の王子さま新潮文庫)のあらすじ、感想など

星の王子さま」は、フランス人の飛行士・小説家のアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの代表作で、1943年にアメリカで出版されて以来、200以上の国と地域で翻訳されて読み継がれている物語です。

童話ですが、大人にこそ響く内容がたくさん詰まっている物語であると思います。

 

あらすじ

砂漠に不時着した飛行士=「僕」は、宇宙のどこかの星からやってきた不思議な少年=「王子さま」と出会います。

 

年齢を重ねても、どこか、「大人」に対する違和感を感じながら生きていた「僕」は、王子さまと過ごすうち、生きていく上での大切な事を思い出します。

そして、やってくる「僕」と王子さまとの別れ…。

フランスの作家であり、飛行士でもあったサン=テグジュペリが実際に飛行機で不時着した経験も基に書かれた小説であると言われています。

 

ストーリー概要

飛行士の「僕」がサハラ砂漠に不時着するシーンから物語は始まります。

これまで、心から話ができる人がいないまま、大人たちと上辺だけの会話をしてきた「僕」は

、ある日、不時着した砂漠で不思議な少年=王子さまと出会います。

不時着した晩、「僕」が眠っていると、夜明けにいきなり、「おねがい、ヒツジの絵を描いて」と王子さまは話しかけてきました。

「僕」が試しに、これまで大人が誰も理解してくれなかった「ボアに飲み込まれたゾウ」を描くと、王子さまは瞬時にその絵を理解します。

さらに、「ヒツジの絵を描いて」と言うので、「僕」は面倒に思いながらも、「木箱に入ったヒツジ」の絵を描くと、王子さまの表情は一気に明るくなり、喜びます。

その後、「僕」は飛行機の修理をしながら、王子さまが暮らしていた星や、これまで旅してきた様々な「星」の話を聞きます。

王子さまの住んでいた星は歩いて一周出来てしまうほどに小さくて、そこに一輪の花(バラ)が咲きました。王子さまはそのバラを大切にしていましたが、バラのわがままに耐えきれなくなり、自分の星を出て、様々な星を巡り、やがて、地球にたどりつきました。

 

訪れた6つの星

王子さまは、「僕」に出会うまで、6つの星を旅してきました。

一つ目の星:王様が1人で住んでいる星

→王様は王子さまが来た事を喜び、「法務大臣」にしてやろうと述べますが、「権威」こそ全てと考えている王様の事を王子さまは理解できず、星を去ります。

二つ目の星:大物気取り(うぬぼれ屋)が1人で住んでいる星

→「賞賛されることこそ全て」と考えている彼の事をみて、王子さまは「おとなってやっぱり変だ」と思います。

三つ目の星:酒浸りの男が住んでいる星

→「酒浸りでいる事を恥じ」ているが、「恥じ」ている事を忘れるために飲んでいると言う男に王子さまは困惑してしまいます。

四つ目の星:実業家が住む星

→星の数をひたすら数えて記録する人物が住んでいました。王子さまはそれを見て、「大人はどこかズレている」と思います。

五つめの星:どこよりも小さな星

ガス灯が一本あり、そこに火を灯す点灯人が1人で住んでいました。朝になるとガス灯を消し、夜になると灯す作業を延々と繰り返しています。自転はどんどん早くなり、1分おきに灯す、消す作業を行なっています。

点灯人は「なぜこんな事をするの?」という王子さまの質問に対して、「決まっている事だから」と答えます。

王子さまは、この人となら友達になれそうと思いましたが、そこを後にすることになります。

六つ目の星:地理学者のおじいさんが住む星

地理学者のおじいさんは、王子さまが住んでいた星に興味を示します。会話をしていく中で、初めて自分が住んでいた星にいた、あのバラの「儚さ」に思い至りました。

地理学者のおじいさんの勧めで、最後に地球に辿り着くことになります。

そして、七つ目に訪れたのが地球です。

ここで、王子さまは地球のことを「王様が111人、地理学者が7000人、実業家ぎ90万人、酔っ払いが750万人、大物気取りが3億1100万人、点灯人が46万人いる星」だと述べています。

面白いところは、ここで王子さまがこれまで旅してきた星と比べて、地球は、スケールは大きいが本質は変わらないということを言っている点です。

地球での出来事〜キツネとの出会い

地球にたどり着いた王子さまは、岩、雪、砂漠を歩き続けて、やがて一本の道を見つけます。

そこにあったのは、バラの花咲く庭園でした。

そこで、王子さまは5000本のバラが咲いていることを目撃します。

王子さまは、この世で一輪だけの財宝の様な花だと思っていた自分の星のバラが、本当はただのありふれた花だったことに落胆します。

そんな中、ふいにキツネが王子さまの前に現れます。

王子さまはキツネに向かって、「僕と遊ぼう」と言いますが、キツネは「なついていないからダメ」と答えます。

王子さまは、キツネに「なつくって何?」と質問すると、キツネは「絆を結ぶこと」と答えます。

きみはまだ、僕にとっては、ほかの十万の男の子と変わらない男の子だ。(中略)…

でも、きみがぼくをなつかせたら、ぼくらはお互いに、なくてはならない存在になる。

きみはぼくにとって、世界でひとりだけの人になる。ぼくもきみにとって世界で一匹だけのキツネになる。(星の王子さまより)

キツネはさらに言います。

「なつかせていたもの、絆を結んだものしか、本当に知ることはできない。」

キツネの言葉で王子さまは気づかされるのです。「自分の星のバラが他のものとは全然違うことに」

王子さまは、庭園に咲いているバラたちに、きみたちは自分にとって特別な存在ではないと述べます。

ぼくが水をやったのはあのバラだもの。ガラスのおおいをかけてやったのもあのバラだもの。

ついたてで守ってやったのも、毛虫をやっつけてやったのも。

文句を言ったり、自慢したり、ときどきは黙り込んだりするのにまで耳を傾けてやったのも。だって彼女は僕のバラだもの。(星の王子さまより)

そして、キツネは最後に言います。

じゃあ、秘密を教えるよ、とても簡単なことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない。(星の王子さまより)

僕と王子さまとの別れ

王子さまは、キツネとのエピソードを「僕」に語り、「僕」もまた、「大切なものは心で見つけなくちゃいけない」ことに気付きます。

そして、地球に来てからちょうど1年が経過したある日、王子さまは身体を置いて、魂だけで自分の星に帰ろうとします。

毒ヘビと会話をし、噛まれて自分の星へ帰って行きました。不思議なことに、王子さまの身体は消えていきました。

 

感想など

この「星の王子さま」は、「絆とは何か」「人間にとって大切なものは何か」という普遍的な内容をテーマにしているからこそ、全世界で読み継がれてきているのだと思います。

物語中、キツネが語っている内容には特に刺さるものがありました。「助け合ったり、時には衝突する中で人との絆は強くなっていく。」そういったことをこの「星の王子さま」から教わった気がします。

また、私たちはつい、目先の利益や分かりやすいものに執着して、周りが見えなくなってしまいがちです。何に価値を置くかは人によりますが、(お金だったり、権威だったり、地位だったり、名誉だったり…)

「本当に大切なことは意外と身近にあるのかもしれない。自分は大切なことを見ようとしているだろうか?」と自問する機会を与えてくれるのも、「星の王子さま」を読む意義だと思います。

 

 

 

「民主主義とは何か」の内容・要約など②(講談社現代新書)

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「民主主義とは何か」宇野重規著者 講談社現代新書

前回の続きです。

 

私たちは現代の選挙によって代表者を選ぶ「代表制民主主義」を唯一の民主主義であると考えがちです。

しかし、それは唯一無二の民主主義なのでしょうか。何が民主主義的かどうかは歴史を踏まえて考える必要がありそうです。

本書では古代ギリシアから2500年に渡る民主主義の歴史を振り返ることで、民主主義を分析しています。「民主主義ってそもそも何なのだろう…?」という疑問を持った方にはぴったりの本です。

前回は主に古代ギリシアの民主政を見ていきましたが、今回は近代以降の民主主義の変遷を見ていきます。

西欧における議会制

●議会制は民主主義的なシステムか?

本書では、現代では民主主義のシステムとして最も浸透している「議会制」というシステムは直ちに民主主義であるとは言えない事が強調されています。

これは一体どういうことでしょうか。

古代ギリシアでは、市民で構成される「民会」がポリス内のあらゆる事柄に対しての決定権を握っていました。

今の佐賀県くらいの大きさだったアテナイではは、民会が開催される日には農村部からも数日がかりで議論を行うプニュクスの丘まで駆けつけたといいます。

アテナイの市民にとっては、民会に参加する事が最大の名誉であったに違いありません。

何しろ、自ら発言を機会を持てたのですから。

そして、公職についた後に実施した事柄についての責任が問われるシステムにもなっていました。

まさに、「参加と責任のシステム」こそが民主主義を支えていたと言えます。しかし、これは現代われわれが民主主義と呼んでいるものとは大きく異なる形態でしょう。

本書でも記されていますが、

問い直すべきは、私たちが日常的に民主主義と呼んでいるものが、本当に民主主義と言えるか

ということなのです。

現にアリストテレスは、「民主主義に相応しいのは抽選制で、選挙はむしろ貴族的性格が強い」と述べています。

●議会制民主主義の起源

では、議会制の起源はどこに求められるのでしょうか??

本書によれば、西欧において中世が終わり、封建制が崩れてきた時代に遡るといいます。

封建社会では、それぞれの領主が自前で軍隊を持ち、課税権を持ち、司法権も持っていました。国王の収入源は基本的には直轄地に限られていたのです。

それが戦争などの必要性から、国王が司法権の掌握に始まり、徐々に領土全域への課税権も拡大していきました。

しかし、国王といえども、無制限で課税が出来るわけではなく、議会を開催し、各身分の承認を得る必要がありました。

つまり、議会の起源=国王が課税の承認を得るための身分制議会と言うわけです。

起源から考えると、議会そのものは、人々が自らの事を自らで決めていくという民主主義の理念に近いわけではありません。

●議会制民主主義の発展

起源的には民主主義とはかけ離れた議会が、間もなく人々の意見を表出する場となっていったことは事実です。

イングランドでは、ジョン王の度重なる課税要求に対して貴族たちが反乱を起こす事で、1215年、マグナカルタ(大憲章)が成立しました。

国王は、臣民の自由と権利を守り、法の支配に服する範囲において権力を行使する事ができる事が明文化されました。

西欧では、国家システムが整備され、中央集権が進む一方、それに対抗する力としての議会の力が強くなっていきました。

政治学者のフランシスフクヤマは以下の通り述べています。

国家と抵抗勢力との均衡が成り立って初めて、説明責任を果たす政府が生まれる。

この均衡をいち早く成立させたのがイギリス議会制の歴史です。

 

●英仏米の近代化

17世紀になり、イングランドでは、王権と議会の対立が顕著になります。

この時期を代表するのはトマス=ホッブズでした。

主著、リヴァイアサンでは、個人の自由と生存を守るために、国家の存在を規定しています。

清教徒革命が起こり、その後、王政復古しますが、ジョン=ロック「統治ニ論」の影響を受けて、名誉革命を実現します。

イギリスはいち早く議会主権を成立させました。

フランスでは、ブルボン朝のもとで中央集権国家体制が整備されましたが、イギリスの様にはいきませんでした。

中央集権化によって、貴族たちは土地との結びつきを失ったにも関わらず、特権を享受し続けることで平民たちの憎悪を買うことになります。

イギリスと違って、貴族と地主、中産階級と農民との間に連帯が生まれないため、政治は不安定になりました。

そして、平民の怒りは数十年振りに開かれた3部界において爆発し、フランス革命へと発展しました。

●合衆国憲法

アメリカと言えば、自由の国、民主主義の国というイメージがありますよね。

しかし、本書によれば、合衆国の建国、合衆国憲法の成立は苦難の連続であったといいます。

イギリスから独立した13の州は当時、国家(state)であり、それぞれ固有に課税権や司法権などを有していました。

(その名残として、マサチューセッツ州の名称は依然として、マサチューセッツ共和国という意味の、commonwealth of Massachusetts となっています)

憲法案では、連邦政府の権限は明確に条文上に規定されているものに限定され、それ以外は州の主権に留保するなど、妥協の多いものになっています。

●ザ・フェデラリスト

合衆国憲法についてのニューヨーク州の反発は特に強烈で、その事を受け、憲法案についての解説書が発行されることになります。これが、「ザ・フェデラリスト」です。

書いたのは、アレクサンダー・ハミルトン(初代財務長官)、ジェームズ・マディソン(第四代大統領)、ジョン・ジェイ(初代連邦最高裁長官)です。

「ザ・フェデラリスト」の中では、純粋民主政と共和政が対比されています。

その中で、純粋な民主政は大国には向かず、多数派によって少数派の意見が犠牲となる可能性がある一方、共和制は代表を選び、選ばれた人間は公共の利益をよく理解しているため、望ましい事が述べられています。

また、純粋民主政では派閥同士の争いが激化しがちな一方、共和政においては、派閥の対立を緩和する事ができると述べ、共和政=代表制民主主義を批判しています。

面白いことに、私たちは、代表制民主主義こそが近代の領域国家において唯一可能な民主主義であると信じて疑わなくなっていますが、これは、この常識は、「ザ・フェデラリスト」の言説から始まっているのです。

民主主義の理論を確立した思想家たち

●アレクシ・ド・トクヴィル

建国の父たちは、純粋な民主政を批判していましたが、当時のアメリカは民主主義的ではなかったのでしょうか??

本書では、それは違うと主張されています。

フランス人貴族出身の政治学者、アレクシ・ド・トクヴィルは、アンドリュー・ジャクソン時代のアメリカを訪問し、その経験を基に「アメリカのデモクラシー」を執筆しました。

東部ニューイングランドのタウンシップを訪問する中、市民が持っている政治的な見識にトクヴィルは驚かされたのです。

当時のアメリカでは、政府の力が弱い分、学校や道路、病院などについても、自分たちの力でお金を集め、あるいはそのための結社(アソシエーション)をして事を進めていました。

トクヴィルの言うデモクラシーは政治体制としての民主主義という狭い意味ではなく、地域レベルの自治や社会の様々な側面で見られる平等の趨勢を意味しています。

● ルソー

啓蒙思想家ルソーが登場し、社会契約論はフランス革命の論理的支柱となります。

(とはいっても、本書によると、ルソー自身が革命を扇動した訳ではなく、革命の大義のため、彼の思想が利用されたようです。)

ルソーは幼少期より、プルタルコス英雄伝を読むなど、古代への憧れを強く抱いていた人物です。彼の古代社会のイメージは、「貧しくても危害を持った市民たちが自由を守るために祖国を守る」といったものです。

ルソーからすると、同時代の「文明」なるものは、奢侈と虚栄に満ちたものに見えて仕方がなかったのですね。

ルソーといえば、社会契約論が有名ですが、

この社会契約の意味について、ルソーは

各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること

と述べています。

この社会契約に基づいてつくられる存在こそが「国家」となる訳です。

また、ルソーは「一般意志」に従って行動すべきであると説いています。この、「一般意志」とは何かについて、ルソー自身、明確に示していないそうです。そのため、今日でも議論を呼んでいます。

本書では、この「一般意志」に従うことの意味について、「一人一人が社会全体の公共の利益を考えること」と定義しています。

古代の政治に憧れを抱くルソーにとっては、自ら公共の利益を考えることなく、全てを自分たちの代表に委ねて平然としていることに我慢がならなかったのでしょう。

市民一人一人が公共の利益について考えて、議論する事が民主主義を支えるというルソーの主張は、今なお響いてくるものがあるのではないでしょうか。

 

●J.Sミル

本書では、代議制が最も優れたシステムであるというイメージを定着させた思想家として、ミルを挙げています。

子どもの頃から、ベンサムの様な功利主義者になるべく育てられたミルですが、青年期にはベンサムとの思想の違いに悩むことも多かったそうです。

やがて、ワーズワースの詩に感激し、美が人の精神にもたらす感動や共感の意義に目覚めたといいます。

ミルの主著といえば、「自由論」です。

その中で、自由について以下の様に述べています。

自由の名に値する唯一の自由とは、他人の幸福を奪ったり、幸福を得ようとする他人の努力を妨害しない限り、自分のやり方で自分自身の幸福を追求する自由である。(自由論)

かつ、ミルは個人の自由を認めることには社会的意義があると述べています。

やはり功利主義者らしい考え方ですね。

また、「代議制統治論」において、良い統治の基準について述べています。

一、国民自身の徳と知性の促進

ニ、機構それ自体の質

そして、これら2つの基準を満たす統治のあり方として、代議制を挙げており、代議制は

平均水準の知性と誠実さを最も賢明な社会成員の個々の知性や徳とともに集約するための装置

であると述べています。

まず、個人の自由こそが民主主義の根幹であり、その上で代議制こそが望ましいとしたミルの理論は、後世に多大な影響を与えたということができます。

シュンペーター

シュンペーターは著名な経済学者ですが、実は民主主義についての考察でも有名です。彼は、

「民主主義において重要なのは、人民自ら物事を決めることではなく、人民が代表者を選ぶこと、そのものである」と述べています。

そして、選挙において票の獲得を目指した競争こそが、民主主義の本質であると主張しています。

やや極端な理論に思えますが、シュンペーターのこの理論は「エリート民主主義」と呼ばれています。

他、本書では主権者に強大な権限を与えるべきと主張したM.ウェーバーC.シュミット

「見捨てられた人々」にとって議会は憎しみの対象となると述べたハンナ・アーレント

平等な自由を目指すべきとしたロールズ

多元的な集団の競争によって民主主義を実現すべきとしたダールなどが紹介されています。

〜まとめ〜

以上、ザックリと本書の内容をまとめましたが、古代ギリシアに始まった民主主義が歩んできた道は平坦ではなく、長い間王政や共和制に追いやられる存在であったことは面白いですね。

今では、私たちは議会制民主主義こそが唯一の民主主義の形であると認識していますが、歴史的に見ると、議会制民主主義=民主主義という認識が固まってきたのはアメリカの独立以降であり、比較的最近のことである事がわかります。

その様な中で、ルソーやトクヴィルの主張には刺さるものがあるのではないでしょうか。

つまり、代表者を選んで満足するだけでなく、市民一人一人が日頃から活発な議論を行なっていく事もまた、民主主義の大切な側面であるという事です。

全て議会に任せれば良い、という考え方はある意味合理的なのですが、自分たちの意見が議会で全く反映されていないと感じたとき、無力感を覚えることになるかもしれません。

(現に、多くの人がそう感じているのではないでしょうか?)

「民主主義とは参加と責任のシステム」である。この事は肝に銘じたいところですね!

本書は民主主義の歴史が凝縮された一冊です。

気になった方は是非手にとって読んでみてください!