読書の森〜ビジネス、自己啓発、文学、哲学、心理学などに関する本の紹介・感想など

数年前、ベストセラー「嫌われる勇気」に出会い、読書の素晴らしさに目覚めました。ビジネス、自己啓発、文学、哲学など、様々なジャンルの本の紹介・感想などを綴っていきます。マイペースで更新していきます。皆さんの本との出会いの一助になれば幸いです。

「鼻」(芥川龍之介)のあらすじなど

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芥川龍之介の「鼻」は芥川作品の中でも有名な作品です。ユーモラスな物語の中に人間の醜悪な部分が描かれた芥川らしい作品だと思います。あらすじなどを紹介していきます。

 

〇 「鼻」について

芥川龍之介は「今昔物語集」をベースに書いた作品を多く残しており、この「鼻」も今昔物語集の中の説話が基になっています。

芥川龍之介は学生時代、夏目漱石にこの「鼻」を絶賛され、華々しく文壇にデビューしています。

 

〇 「鼻」の概要、あらすじ

登場人物:禅智内供(ぜんちないぐ)

     50歳を超えた京都の僧侶。あごまでぶら下がる大きな鼻の持ち主。

時代:平安時代

~あらすじ~

池の尾の内供・・池の尾(京都)の僧侶である禅智内供はあごまで垂れ下がる縦に長い

        鼻を持っていた。長さ15cm~18cmほどで、「ソーセージのように」

        ぶら下がっていた。

 

内供は鼻のことを気にはしていたが、それを他人に悟られることのないよう、気にしないふりをしていた。内供は寺に通う人、経典の中にも自分と同じような長い鼻を持つ人を見つけることはできなかった。

 

ある日、弟子から長い鼻を短くする方法を聞く。

 

その方法とは、

①鼻を茹でる

②鼻を踏む

③鼻から出てきた粒の様なものを毛抜きで抜く

 

の3ステップだった。

 

内供がその方法通りに鼻を茹で、弟子に鼻を踏んでもらい、鼻から出てきた粒の様なものを毛抜きで抜くと、垂れた鼻が縮み、上唇から上までの長さになっていた。

 

しかし、短くなった内供の鼻を見て、笑う人が出てきた。しかも、鼻が長かったころよりも馬鹿にされているような気がする。

 

内供は内心こう思う、「人間は他人の不幸には同情するが、それを克服すると、物足りなくなった他人は再び同じ不幸に陥れてみたくなるのだ」と。

 

内供は、鼻が長いころよりも却って不快な気分になり、弟子にも八つ当たりするようになり、前の長い鼻に戻りたいと思うようにさえなっていた。

 

そして、ある夜、内供の鼻はむくみ始め、朝起きると、元に戻っていた。

 

内供は安堵感に包まれ、こう思った。

 

「もうこれで誰も自分を笑わない。」

 

〇 考察

「鼻」のストーリーは、コンプレックスに感じていた鼻を大真面目に小さくしようとして、せっかく小さくなったにも関わらず、結局は元通りになったことを喜ぶ、という内容です。

短くなった内供の鼻が一層人々が笑われるというのは何とも後味の悪いストーリーですね。笑われたときの内供の感情は、「人間は他人の不幸には同情するが、それを克服すると、物足りなくなった他人は再び同じ不幸に陥れてみたくなるのだ」というセリフに集約されていると思います。

つまり、「人の不幸は蜜の味」ということですね。近年、脳科学の分野においても、人間にはこのような心理的特性が備わっていることが明らかにされています。人はポジティブな情報より、ネガティブな情報に反応する癖を持っているようです。

 

このことは、祖先が弱肉強食の世界、厳しい自然環境の中で生きていたことと関係していると思います。当時は猛獣がどこにいるか、これから豪雨が来るかといった情報をいち早く察知することが生存のために極めて重要であったに違いありません。

 

ニュースなども人間の、この本能的な特性を理解した上で報道を行っています。人間は楽しいニュースよりも、「〇〇県で殺人事件が発生した」「〇〇市で火災が発生」といったニュースにより強い関心を示すのです。

 

文明が始まって以降、人間は人間自身を他の動物たちとは一線を画す、特別な存在であると考えてきました。(聖書では、神は度々人間に語りかけてきますが、他の動物に語りかけることはありません。)その人間中心主義の根本にあるのは、「動物は本能にしたがって行動するが、人間には理性があり、理性的な行動を取ることができる。」という理性中心主義であると思います。

 

しかし、近年の脳科学や心理学の研究は、人間の行動はかなり本能的な部分に依っていることを明らかにしてきており、そのような人間中心主義の神話は打ち壊されようとしています。

 

聖書や西洋哲学が日本にもたらされ、人間の理性や自由が高らかに謳われ始めた時代、芥川は人間の持つ醜い部分を暴き出すかのような作品をたくさん遺しました。

 

自分が信じたくないこと、考えたくないこと、知りたくないことに対しては懸命に目を背けたくなるものです。人間にとってそれは一種の自己防衛本能なのかもしれません。しかし、人間の美しい部分だけではなく、醜い部分についても注目することで真の人間理解ができると思います。人間はある種自らの内面に矛盾した感情を抱えており、複雑だからこそ、それを描く文学作品にも深みが生まれます。

また、ポジティブに考えると、人間には醜い部分があるからこそ、美しい部分が際立つとも言えるのではないでしょうか。むしろ、醜悪な部分をひた隠しにし、美しい面だけを見せようとする方がより醜悪であると言えるかもしれません。

芥川龍之介の作品は、そのような風潮に対するアンチテーゼとして読むことができると思います。

また、「鼻」の中で禅智内供を笑う人々を反面教師にすることも出来るでしょう。困難を乗り越えた人に対しては称賛すればこそ、笑うことは避けたいところですね。。

「鼻」は夏目漱石が激賞しただけあって、芥川龍之介作品のすばらしさが凝縮されたような作品です。短編で気軽に読める点もすばらしいです。ぜひご一読ください!