読書の森〜ビジネス、自己啓発、文学、哲学、心理学などに関する本の紹介・感想など

数年前、ベストセラー「嫌われる勇気」に出会い、読書の素晴らしさに目覚めました。ビジネス、自己啓発、文学、哲学など、様々なジャンルの本の紹介・感想などを綴っていきます。マイペースで更新していきます。皆さんの本との出会いの一助になれば幸いです。

「華氏451度」(レイ・ブラッドベリ)の要約・内容など

「華氏451度」(レイ・ブラッドベリ著)

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今回はレイ・ブラッドベリの華氏451度を紹介したいと思います。ジョージ・オーウェルの「1984年」と並び、ディストピアを描いた小説として有名です。華氏451度では、「本が焼かれるディストピア」が描かれます。物語の舞台は反知性主義が徹底された近未来です。「思考すること」、「記録すること」の大切さなど、私たちに深く考えさせてくれる文学作品です。

【物語の基本設定】

華氏451度の時代では、本は市民に有害な情報をもたらすものとして読むことはおろか、所有さえ禁止されています。そして、昇火士(ファイアマン)という職業があり、本という本を焼き尽くします。物語の主人公は、昇火士として働くガイ・モンターグ。彼は模範的な昇火士として働いていましたが、様々な人々との出会いを通じて、自分の職業に疑問を持つようになります。

本の代わりに人々を支配しているのは、参加型のテレビスクリーンとラジオです。彼の妻、ミルドレッドは中毒患者のようにその快楽に溺れています。

主人公のガイ・モンターグが心変わりをする過程がこの小説の読みどころです。

そして、終盤には怒涛の展開が待っており、物語それ自体も非常に楽しめる内容になっています。

 

【登場人物】

ガイ・モンターグ:物語の主人公。本を燃やし尽くす昇火士として働くが、やがて昇火士という職業に疑問を抱くようになり、隠れて本を読むようになる。

 

ミルドレッド:モンターグの妻。四六時中テレビスクリーンに夢中になっている。

 

クラリス:17歳の少女。不思議な雰囲気を持ち、モンターグ宅の隣に住んでいる。

 

老婆:とある屋敷に住んでいる老婆。本に殉じる形で生涯を終える。

 

ベイティー:昇火士。モンターグが属する隊の隊長を務める。

 

フェーバー:学者。今は世の中に絶望し、隠遁生活を送っている。

【読みどころとポイント】

クラリスとモンターグの出会い

モンターグは、ある日、不思議な少女、クラリスと出会います。

彼女の顔はこわれやすいミルク色のクリスタルグラスで、やわらかな光をゆるぎなくたたえていた。それは電気のようなヒステリックな光ではなく、ふしぎに落ち着く、見慣れない、やさしく励ますようなロウソクの光だ。

彼女は、テレビスクリーンではなく、自然の中によろこびや感動を見つける、知性、感性が豊かな人物として描かれています。しかし、周囲の人は彼女を奇人、変人扱いをしています。彼女はモンターグに対して、以下のように語りかけます。

わたしが知っていることで、あなたが知らないことがあるわ。朝の草むらを見たら、露がいっぱいたまっていたの。

また、こうも言います。

あなた、幸福?

モンターグはクラリスに衝撃を受けるのでした。なぜなら、彼の周囲には、自然の中に見出したり、幸福について問いかけてくるような人物がいなかったからです。そして、モンターグは、自分の妻、ミルドレッドがさながら麻薬中毒者のようにスクリーンの中のテレビドラマに夢中になっているのを見て、愕然とするのでした。

 

〇老婆との出会い

ある日のことでした。モンターグはいつも通り、昇火士として、本を所有しているという報告を受け、現場へと急行します。現場に到着すると、広い屋敷があり、中には一人の老婆が住んでいました。隊長のベイティーを先頭に、モンターグたちは老婆の屋敷に入ると、次々に本を屋根裏から放り投げ、本をケロシン(石油)で浸し、火炎放射器で燃やしていきます。

屋敷全体も炎に包まれていきますが、老婆は部屋から動こうとしません。そして、このような言葉を発します。

今日、この日、神のみ恵によって、この英国に聖なるロウソクを灯すのです。二度と火の消えることのないロウソクを。

モンターグは、老婆を助けようとしますが、老婆は一歩も動こうとしませんでした。

老婆はケロシン浸しになり、燃え盛る部屋の中でマッチを取り出し、焼身自殺を遂げるのでした。老婆は本に殉じる形で亡くなったのです。

これまで一度も本など読んだことのなかったモンターグは、老婆が本のために命をかけたことに大きな衝撃を受けます。

そして、次のような考えがモンターグの中に生まれてきます。

「本の中には何かがあるのではないか。命をかけるだけの何かが。」モンターグは昇火士という仕事、本をひたすらに嫌悪する社会の在り方に疑問を抱くようになりました。

モンターグは、老婆の屋敷から隠れて本を持っていき、犯罪行為とされている読書を開始するのでした。

モンターグの心の中に、以下のような心境が芽生えてくるようになります。

「もし、本の中に何かあったら、伝えていけるかもしれない。」

〇ベイティー隊長との会話

老婆の屋敷での出来事に大きな衝撃を受けたモンターグは、翌日、初めて昇火士の仕事を欠勤しました。

そこにベイティー隊長がやってきて、本は害悪であり、昇火士という仕事の意義について述べ、モンターグを諭します。

まず、ベイティーは、メディアの発達の変遷について述べました。

ラジオ、テレビジョン、いろんな媒体が大衆の心をつかんだ。そして、大衆の心をつかむほど中身は単純化された。映画やラジオ、雑誌、本は練り粉で作ったプディングみたいな大味なレベルにまで落ちた。

そして、ベイティーは社会が加速化するに伴い、反射的な思考が求められるようになった時代においては、本がもはや無用の長物に過ぎないということも述べます。

雑誌はバニラタピオカの口当たりのいいブレンド、その一方で、本は皿を洗ったあとの汚れ水となった。

また、本自体の内容も単純化、ダイジェスト化され、人々が自ら考えなくなってしまったとベイティーは続けます。そして、炎で本を焼き払うという昇火士という仕事の役割は、一種のカタルシス、エンターテインメントであるとも言います。

哲学だの社会学だの、物事を関連づけて考えるような、つかみどころのないものは与えてはならない。そんなものをかじったら、待っているのは憂鬱だ。何もかも燃やしてしまえ。火は明るい。火は清潔だ

ベイティーは、心の平穏のためには、複雑な思考などは害悪であり、我々は人々の心の平穏を守るために本を焼いているのだ、とモンターグに対して繰り返し述べるのです。

 

〇フェーバー教授との対話

モンターグは、「本の持つ本当の価値」とは何かを教えてもらうために、近所に住んでいる知識人、フェーバー教授のもとを訪れます。

フェーバーは、モンターグに対して、かつて、本を価値あるものにしていた要素について語ります。

1.本質的な情報

2.本をじっくり読むための余暇の時間

3.本から学んで行動すること。

また、モンターグが持参した聖書を見て、次のように語ります。

この本には毛穴がある。目鼻がある。この本を顕微鏡でのぞけば、レンズの下に命が見える。細部を語れ。生き生きとした細部を。すぐれた作家はいくたびも命にふれる。凡庸な作家はさらりと表面をなぞるだけ。

〇ベイティー隊長との対決

再び昇火士として復帰していたモンターグですが、ある日、出動命令が下り、出動すると、到着した現場はなんと自分の家でした。モンターグが本を隠し持っているということがばれてしまったためです。妻、ミルドレッドは、モンターグの心配より、テレビドラマが見れなくなってしまうことに消沈し、車でどこかへ行ってしまいます。ベイティー隊長から命令が下り、モンターグは自分の家を焼き払いました。

その後、逮捕しようとするベイティー隊長と直接対決の時を迎えます。そして、ベイティーとの対決は衝撃的な結末を迎えます。

 

〇ラスト

ベイティーとの対決後、追われる身となったモンターグは、フェーバーのアドバイスを受け、街はずれの河岸に向かいます。何とか追跡を振り切ったモンターグは、逃亡先で、本を口承している人々の集団と出会います。彼らは街から追放された知識人たちで、プラトンの「共和国」の内容などを暗記し、後世に伝えていこうと考えている人々でした。モンターグは彼らと同じ志を持つものとして、受け入れられます。

そして、衝撃のラストを迎えます。どのようなラストなのか、そして、このラストをどのように考えるか、実際に手にとって読んでいただきたいところです。

 

感想・考察など

この華氏451度には、スピード化された社会へのアンチテーゼがはっきりと示されていると言えると思います。

作中では、「火」について、面白い対比がなされています。全てを焼き尽くす火炎放射器の火と、周囲をゆっくりと明るく照らしていく、ロウソクの火です。火炎放射機の「火」は、全ての物を灰になるまで焼き尽くす、破壊的な「火」です。一方で、ロウソクは消えそうになっても、別のロウソクに火を灯していくことが可能です。

記録され、後世にまで残される本は、ロウソクのように、時代を超えて人々に影響を及ぼし続けるものであるということが表現されていると思います。

また、作中で登場する、昇火士という職業について、ベイティー隊長が、「人々が自ら本を読むことをやめてしまったため、本当は昇火士という職業などは必要ない。一種のエンターテインメントとして本を燃やしている」といったことを言うシーンがありますが、これが何とも皮肉ですね。

加速化された社会においては、複雑で分かりずらい話などは忌避され、かつ即効性のあるものが評価されます。

テレビを例にとってみると、ワイドショーや報道番組では、より簡潔で分かりやすい内容が好まれます。「今、〇〇が話題沸騰!」「次に流行するのはこれだ!」といったタイトルを何回も目にしたことがあるかと思います。コメンテーターも、短時間の間に歯切れのよいコメントをすることが求められています。

視聴者に対して深い内省を促すような言説は求められていません。

また、学問の世界でも、哲学や文学といった学問を学ぶより、商学や経済学などを学んだ方が「実用的」だ(この、実用的、という意味も極めて曖昧なのですが)、研究費が出ないような基礎研究をやったところで意味がないなどといった言説がしばしばなされているように感じます。

この華氏451度は発刊から70年近く経った今なお新鮮さを失っていません。それどころか、作品の中で描かれているようなディストピアが今まさに迫ってきているようにさえ感じます。レイ・ブラッドベリは作品を通じて、「絶えず思考しよう。何事も一度立ち止まって考えてみよう。知識は記録・保存して伝えていこう」ということを強く訴えかけてきているのではないでしょうか。