読書の森〜ビジネス、自己啓発、文学、哲学、心理学などに関する本の紹介・感想など

数年前、ベストセラー「嫌われる勇気」に出会い、読書の素晴らしさに目覚めました。ビジネス、自己啓発、文学、哲学など、様々なジャンルの本の紹介・感想などを綴っていきます。マイペースで更新していきます。皆さんの本との出会いの一助になれば幸いです。

脳に悪い7つの習慣(幻冬社新書)

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「脳に悪い7つの習慣」(幻冬社新書)(林成之著)¥740(+税)

書店に行くと、「脳科学」に関する本をたくさん目にする様になりました。脳のパフォーマンスを高める事がビジネスの分野などでもプラスになるということが分かってきたことの証でしょう。

 

では、「脳のパフォーマンスを高めるにはどうすればいいか?」という疑問に対して、本書において、著者の林さんは、長年救命救急の現場で「脳をフルに働かせること」をチームや自己に課し、多くの患者を救ってきた経験から脳のパフォーマンスを上げる方法を提示しています。

 

タイトルの通り、「脳に悪い習慣」が7つ、順を追って解説されています。脳が「理解し、判断し、記憶する」プロセスについての説明もあり、脳の仕組みから、脳にとって良いこと、悪いことが見えてくる構成になっています。

 

●脳の持つ本能

いきなり「脳に悪い習慣」の話に入る前に、「脳神経細胞が持つ本能」についての説明があります。

その本能とは「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」の3つです。

家庭や学校、文化、様々な社会システムは、この脳神経細胞の持つ本能に基づいてつくられてきたといいます。この、「脳神経細胞が持つ本能」を磨くことが本書でいうゴールになります。

また、脳神経細胞が持つ2段階目の本能として、「自己保存」と「統一・一貫性」の2つがあります。

いずれも、「自分を守る」、「正誤判断をする」、「話の筋道を通す」等の意味で重要なものですが、本書では、多少厄介な代物として紹介されています。

これらの本能が過剰反応してしまっている例として、「自分と異なる意見の人のことを嫌いになってしまうことが挙げられています。

脳は自らの意見と異なるものを「統一・一貫性」にはずれるために拒否し、また、「自己保存」が働くことによって自分を守ろうとするため、相手の意見を論破しようとさえすることがあります。(27頁)

こうした、脳の持つ癖を意識した上で、意識的にコントロールし、異なる他者の意見も受け入れるということも、時には必要です。

 

本書では、脳に悪い習慣として、

①「興味がない」と物事を避けることが多い

②「嫌だ」「疲れた」とグチを言う

③言われたことをコツコツやる

④常に効率を考えている

⑤やりたくないのに我慢して勉強する

⑥スポーツや絵などの趣味がない

⑦めったに人をほめない

の7つを挙げています。

 

●脳に悪い習慣

以下、7つの習慣について、簡単に要約します。

①「興味がない」と物事を避けることが多い

著者によると、「興味を持つこと」は脳を活かすためのベースになるもの。

脳のパフォーマンスを上げるには、興味・関心の幅を広げ、何事にも明るく前向きな気持ちで取り組むことが大切。

 

②「嫌だ」「疲れた」とグチを言う

マイナスの言葉を発すると、脳がその言葉に反応し、マイナスのレッテルを貼ってしまう。すると、脳のパフォーマンスは下がる。

 

③言われたことをコツコツやる

→言われたことをやるだけでは、自己報酬系群は働かない。「主体性」が大切。それから、パフォーマンスを最大限に発揮するためには、「ゴール」を意識せず、一気に駆け抜けるという意識が重要。

 

④常に効率を考えている。

「独創性」を生むためには、繰り返し考え、要所要所で整理しておくことが大切。本を読む際にも、「何冊読むか」ではなく、「良書を繰り返し読む」という意識に重点を置くべき。また、日記やブログで自分の考えを整理することは脳にもよい。

 

⑤やりたくないのに我慢して勉強する

脳が記憶するプロセスは、①まずA10神経群で感情のレッテルを貼る、②前頭前野で理解③自己報酬系群を介して、海馬を包含する「ダイナミックセンターコア」において思考し、記憶が生まれる。

この記憶のプロセスを考えると、「面白くない」「嫌い」「役に立たない」と考えることは、記憶することを難しくする。

我慢するのではなく、興味を持ち、好きになり、おもしろいと思って取り組むこと、主体的に取り組むことが記憶する上で重要になる。

 

⑥スポーツや絵などの趣味がない

人間の脳には「空間認知能」が備わっている。これは空間の中で位置や形を認識する能力で、物を見てそれを描く、本を読んでイメージを膨らませる、運動するなど、人間が思考するとき、身体を動かす際などに大きな役割を担っている。

運動(特にキャッチボール)やスケッチといった趣味は空間認知能を鍛えるのに効果的。よくしゃべることも空間認知能を鍛えるのに役立つ。

 

⑦めったに人をほめない

人が相手に気持ちを伝えるとき、相手の神経細胞群に「同期発火を起こす」という意識が大切。

人が悲しい情報を誰かから聞いた場合、相手の話の内容、身振り手振りなどから、脳神経細胞は相手と同じように同期発火を起こし、同じく悲しい気持ちになる。

このことから、

自分の言いたいことを本当に伝えたい時には、淡々とクールに伝えるのではなく、喜怒哀楽の感情を込めて伝える必要がある。(身振りや表情なども交えて)

また、嬉しそうに人をほめることは同期発火を起こしやすくし、人とのコミュニケーションを円滑にし、お互いに思考を深めることにつながる。

 

感想

本書を読んで愕然としたのですが、自分は今まで脳にNGな習慣の7つのうち、5つを習慣にしていました。社会は複雑になり、人間関係も複雑になってきていますが、人間の脳は狩猟最終時代から変わっていません。そのことが大きなミスマッチを引き起こしていると思います。

「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」という脳神経細胞の持つ本能をいかに磨いていくか、まさに今後の社会で生きていく上での鍵となっていきそうです。

中でも、「何にでも興味を抱くこと」は重要だと思います。多くの哲学者が主張してきたことは、実は脳科学的にも正しかったと言えそうです。バートランド・ラッセルは「幸福論」において、「私心のない興味を持つこと」が重要であると述べています。ニーチェは人間の至るべき精神について、ラクダから獅子へ、獅子から赤子へという三段階を主張しました。赤子は現状を肯定し、あらゆるものに興味を示します。それこそ、ニーチェが理想とした姿だったのでしょう。

話が逸れましたが、本書は脳の仕組みを理解するのに有益であるとともに、どうやったら脳のパフォーマンスを上げることができるのか、と言う点について惜しみなく書かれており、非常に役立つ本です。

自分の今の習慣はNGなのかどうか、事あるごとに自己点検する意味でも繰り返し読みたい本です。

 

 

「リア王」ウィリアムシェイクスピア(光文社古典新訳文庫)

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リア王」ウィリアムシェイクスピア光文社古典新訳文庫

 

世界文学史上最高の作家の1人と言われるシェイクスピア。「リア王」は言わずと知れたハムレット、オセロウ、マクベスと並ぶ四大悲劇の一つです。シェイクスピアの文章は何と言ってもエネルギーに満ち溢れています。読書というより、自分が劇の中にいるかのような臨場感をもたらしてくれます。是非、劇でも観てみたい作品です。

 

●主な登場人物

●リア

物語の主人公。ブリテンの王で、娘が3人いる。隠居にあたり、娘たちに国を分割して分け与えようとするが、悲劇の始まりとなる。

●ゴネリル

リアの娘(長女)。オルバニー公を婿に迎え、父、リアを称えて領土を得るが、次第に父が疎ましくなり、冷淡な仕打ちをするようになった。

●リーガン

リアの娘(次女)。コーンウォール公を婿に迎えて、姉のゴネリルと同様、領土を得るが、ゴネリルと同様、冷淡に父に接するようになる。

●コーディリア

リアの娘(三女)

最も父から愛されていたが、セレモニーでリアにおべっかを使わなかったがために反感を買い、感動されてしまう。フランス王の妃になり、ブリテンを去る。後に不遇な父を助けるため、挙兵。

●オズワルド

長女ゴネリルの従者。

●ケント伯爵

リアの忠実な家来。しかし、コーディリアの追放に反対したため、彼自身も追放されてしまう。それでもリアを敬愛し、別人に変装してまで彼に仕える道を選ぶ。

グロスター

リアの臣下。

エドガー

グロスターの長男。父に似て人を疑わない性格。異母兄弟であるエドマンドに謀られ、父から謀反の疑いをかけられてしまう。何とか逃げ延び、リアと共に過ごす。

エドマンド

グロスターの異母兄弟。謀略家で、長子エドガーの座を狙う。

●ケント

リアの側近。リアが精神をおかしくした後も、付き従う。

●道化

リアに付き従う道化師。皮肉に満ちた言葉をづけづけ言う。

●第一幕

ブリテンの王、リアは引退を前に三人の娘に領土を分けることとし、娘に対し、「自分を愛しているか」と問う。長女ゴネリルと次女リーガンは言葉巧みにおべっかを使い、領土を獲得する。実直な末娘コーディリアは、深い愛を言葉にし尽せない故、リアの問いに対して何も言えず、リアの怒りを買い、勘当されてしまいます。それを思いとどまらせようとしたリアの忠実な臣下、ケント伯も怒りを買い、追放されてしまいます。

 やがて、長女ゴネリルが住むオルバニー伯の住む館に滞在するリアに変装したケント伯が再び使えるようになります。リアは隠遁後も自身の軍隊を持つなど力を持ち続けます。ゴネリルはそのようなリアを疎ましく感じるようになります。

●第二幕

グロスター伯の息子、エドマンドは父を騙して兄エドガーを追放させます。リーガンの夫コーンウォール公エドマンドの行動に感銘を受け、臣下とします。ケント伯とゴネリルの執事オズワルドが起こした決闘騒ぎをきっかけに不信感を抱いたリアはリーガン夫妻へ詰め寄りますが、ゴネリルも合流してリアを追い込み、最小限の臣下を残し、追放してしまいます。

●第三幕

雷と稲妻を伴う嵐の中、ケントと道化を道連れに荒野をさまようリア。

「自然の造形の鋳型を、恩知らずの人間を生み出す種子を一粒残らず、いちどきにこぼして滅ぼしてしまえ」と怒り狂うリアに「どんな美人だって、鏡に向かってあかんべえをしてみせない女なんていたためしがないからな」と皮肉交じりで言う道化。やがて、「裸のトム」と名乗るエドガーに出会い、狂気を孕んだ会話を繰り広げます。そこにグロスターが現れ、ゴネリルとリーガンの命令に逆らい、リアを助け、保護するつもりであると告げます。グロスターはリア暗殺の陰謀を聞きつけたのち、フランス軍の上陸しているドーヴァーへ逃げるよう、ケントを促します。やがてグロスターが命令に背き、リアを保護しようとしていることがコーンウォールにばれ、グロスターは捕らえられ、片目をえぐられてしまいます。この時、グロスターはエドマンドが自分を騙していたことに気づき、自らの「愚行」に気づきます。

●第四幕

盲目のまま追放されたグロスター伯は、身をやつした息子、エドガーと出会う。一方、エドガーに密通しているゴネリルは、リア王への仕打ちを難詰する夫、オルバニー公と口論になる。そのうちにコーンウォールの死が告げられ、オルバニーはエドマンドの謀略を知ります。ここで、オルバニーは「グロスターよ、お前の仇は必ず取ってやるからな」と決意します。

グロスターの手を引くエドガーはドーヴァー近くの片田舎でリアに出くわし、ぼろを着たその姿に心を痛めながら、その「意味と無意味」、「狂気と理性」の入り混じる言葉に聞き入ります。

そこに、ゴネリルの執事、オズワルドが現れ、グロスターを阻止しようとするが、エドガーはこれを阻止して打ち倒します。

ケントに導かれてドーヴァーのフランス軍陣営内に到着したリアはコーディリアと再会し、娘の心情を理解し、詫びます。コーディリアは身をやつしたリアの姿を見てショックを受けると同時に、姉たちの仕打ちが許せなくなり、ブリテンへの挙兵をフランス王に進言します。

●第五幕

ブリテンVSフランスの戦争へと突入しますが、フランス王国は敗れ、コーディリアは捕虜として捕らえられてしまいます。しかし、ブリテン王国側も、長女ゴネリルと次女リーガンとの間で争いが起こり、混沌とした状況に陥ります。甲冑を被って身を隠したエドガーはエドマンドに決闘を挑み、打ち負かします。そして、最後にエドガーは自分はお前が追放した兄であると身分を明かします。そこに、オルバニー公も合流します。その折、ゴネリルがリーガンとエドマンドの仲を疑い、リーガンに毒を盛って殺し、自らも短剣で自害したという報告が入ってきます。エドマンドはコーディリアの行方を尋ねられると、既に自らが処刑の指示をしたと答えます。エドガーはすぐさま牢獄へと急ぎますが、時既に遅く、正気を失ったリアがコーディリアの亡骸を抱きしめているのでした。残されたエドガーはオルバニー公などとともに、この不幸な時代の責務を負い、国を再び立て直すことを誓うのでした。

 

●感想

この物語で救われる者はほとんどおらず、まさに「悲劇」です。リアはまさに悲劇の主人公ですが、この悲劇は自らが撒いた種によるもの、ということができます。リアは横暴であったのは事実であり、当初ゴネリルとリーガンは、そんな年老いても分を弁えないリアを疎ましく思って追放してしまいました。しかし、皮肉なことにそんなゴネリルとリーガンもまた、権力を掌握した後は人が変わったかのように横暴な性格になっていきます。猜疑心に満ち、実の姉妹さえも信じることができなくなり、最後は自滅してしまいます。しかし、こんな救いのないストーリーの中にも一抹の希望が描かれています。リアが狂乱状態に陥った後も変わらず付き従う忠実な家来、ケント。謀略家エドマンドに立ち向かうグロスター公やオルバニー公の姿です。「リア王」のストーリーは勧善懲悪の話ではなく、登場人物に感情移入できる、非常にリアルな作品となっています。また、相手を信じ、最後まで己を貫く、騎士道精神の理想を読み取ることができます。不思議な読後感に包まれる、シェイクスピアの傑作です。

 

「幸福論」バートランド・ラッセル(岩波文庫)

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「幸福論」B.ラッセル 岩波文庫

819円(+税)

私たちの生は〈大地〉の生の一部であって、動植物と同じように、そこから栄養を引き出している。〈大地〉の生のリズムはゆったりとしている。

 

哲学者、数学者、核廃絶を目指す平和運動家としても知られる20世紀を代表する知の巨人、ラッセルが書いた幸福論。アラン、ヒルティ著の幸福論と並ぶ、三大幸福論の一つです。

ラッセルといえば、哲学者のウィトゲンシュタインの師にあたる人物としても有名です。

アランの幸福論は文学的、ヒルティの幸福論は宗教的だとすれば、ラッセルの幸福論は現実主義的です。精神、行動の両面から、幸福になるヒントをわれわれに与えてくれます。

文章は決して難解ではなく、具体的かつ明快、そしてユーモアあふれる筆致で人生の本質を突いています。

ラッセルは本書で「周到な努力さえすれば、誰もが幸福になることができる」と説いており、で非常に勇気をもらえる内容となっています。

 

●内容

まず、不幸の原因について解説し、その後、それでも幸福は可能か?ということについて、考察しています。

 

●不幸の原因

競争、疲れ、ねたみ、被害妄想、世評に対する怯え。

本書ではそれぞれがなぜ不幸の原因となるかについて、説かれています。

これらが不幸の原因として挙げられるのは非常に納得の出来る話です。

たとえば、競争原理の中で暮らしていると、心が休まる暇がありません。自分が競争の中で、上位の位置につけば、一時的な満足感は得られるかもしれませんが、いつ自分の立場が脅かされるかわからない、非常に不安定な状態に陥ります。また、他人の事をねたんだり、被害妄想をたくましくしたりすることにも繋がります。

資本主義社会ではしばしば「競争」が重視され、個人の競争心を煽ることがなされます。しかし、問題はそれによってわれわれが幸福になれただろうか?という問いです。

多くの人は「ノー」と答えるでしょう。なぜならそれは本来の人間とはずれたライフスタイルだからです。

 

●幸福になるためには

①外界に興味を抱け!

幸福を得るためには、私心ない興味を持っていることが大切だといいます。ラッセル、例えば、科学者は幸福だと述べています。なぜなら、自分の研究がたとえ世の中の役に立たないことであっても、興味にしたがって何かに没頭している科学者の様な人たちは幸福であると述べています。また、自己に向けた関心は自意識過剰な状態へと繋がり、人を不幸にすることにつながります。

 

②「実りのある単調さ」の中から偉大な事業は達成する。

偉大な本は、おしなべて退屈な部分を含んでいる。

資本主義社会は人々の欲望を絶えず刺激し、絶えず興奮状態に誘おうとします。世の中のありとあらゆる企業の目的は、とにかく消費者の購買意欲を刺激する事でしょう。恐らくは広告戦略なども人間の脳の構造まで踏まえた上で練られているはずです。どのようにすれば、ドーパミンを放出され、購買意欲が掻き立てられる広告を作ることが出来るかどうかなど。そして、我々もまた、資本主義社会にどっぷり浸かっているため、絶えず興奮を求め、退屈な状態が耐えられなくなっている筈です。

しかし、ラッセルは、「退屈を恐れて浅薄な興奮ばかりを追いかけていては、人生が確実に貧しくなる」と言います。カントやダーウィンを挙げ、静かな生活を送っていた事が偉大な人物の特徴であり、退屈に耐え、地味に思える事を粘り強く継続することが重要であると述べています。

 

③他人との比較をやめる

他人と自分との比較は時間の無駄であるとラッセルは説いています。

手に入る楽しみをエンジョイし、しなければならない仕事をし、自分よりも幸福だと(もしかしててんで誤って)思っている人たちとの比較をやめるなら、幸福は誰にでも訪れる。

他人との比較は時に妬みの感情を引き起こします。もっと自分に才能があったら、お金があったら、家柄が良かったら…他人との比較で生まれる感情には負の感情がつきまといます。幸福になるには、まず、他人との比較をやめるべきであるとラッセルは述べています。

 

●感想

ラッセル幸福論のテーマは「バランス感覚」、

「外界への興味」、「他者との繋がり」です。何事も行きすぎず、中庸の徳を実践していくこと、幅広いものに興味を持つことが重要であると説かれています。難解な箇所はなく、ラッセルがわれわれに具体的なアドバイスをしてくれています。

ラッセル自身、内省に終始するのではなく、積極的に社会と関わり、行動してきた人でした。核戦争批判運動、ベトナム戦争への批判など。

「幸福」について、非常に現実的、論理的に分析しているのが本書の特徴です。堂々巡りの考えに陥る事なく、行動に移していく事。直ぐに実行に移したい内容がたくさん詰まっている良書です。

「自助論」の内容・要約 S.スマイルズ(知的生き方文庫)

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「自助論」S.スマイルズ(知的生き方文庫)竹内均 訳 ¥560(+税)

君はいま、自分の生き方を自分で決める時期にさしかかっている。

英国人の医師作家、サミュエル・スマイルズが19世紀に著した世界的な自己啓発書。原題は「セルフ・ヘルプ」で、人生を自らの手で切り拓く自助の精神を説きます。

時機を見抜く才覚、時間や金銭についての知恵、人脈術、人間の器などについて、われわれに温かいアドバイスをしています。

本書は、明治初期の教育者、中村正直によって「西国立志編」として翻訳され、多くの大志抱く青年たちに読み継がれてきた、まさに古典的名著です。

 

●自分の人生を自分で切り拓く

「天は自らを助くるものを助く」

この有名な言葉で始まる本書は世界数十ヵ国に翻訳され、明治初期の日本でも「学問のすすめ」とともに、多くの人々に読まれました。

本書を貫いている思想は「自らの運命を切り拓く事ができるのは自分以外にはいない」というものです。そうした、独立不羈の精神が本書で貫かれており、欧米で有名な偉人のエピソードとともに語られています。

 

●社会の進歩と個人

社会が進歩していくために必要なことは何か?という事について、スマイルズは「外からの支配」よりは「内からの支配」を重視します。

スマイルズは、法律や制度を変えたとしても、社会はより良い方向に変わってはいかないと説きます。

では、何が必要か??

われわれ一人一人が勤勉に働き、活力と正直な心を失わない限り、社会は進歩する(13頁)

社会を良くするのは政治や行政の仕事、とわれわれは考えがちです。しかし、スマイルズはそれは違うというのです。自助の精神、人間の自由意志の力は強い。一人一人が自助の精神を持てば、社会は自ずと変わっていく。

一方で、人間はそれほど強い存在ではないという反論もあるでしょう。

現にわれわれは、うまくいかない理由を環境のせいにしてしまいがちです。

「不景気だから…」、「お金持ちに生まれなかったから…」

もちろん、スマイルズはこれらの言い訳を否定します。厳しいです。しかし、その背景には人間への厚い信頼がある事が本書から読み取れます。スマイルズは、人生のハンドルを握っているのは常に自分であり、「君はいま、自分の生き方を自分で決める時期にさしかかっている」(108頁)と、読者に対して語りかけます。

人生のすべての行動の決定権は常に自分にある事を強く注意喚起します。

 

・人間の優劣は努力で決まる

本書の第二のテーマは「勤勉力」です。

人間の優劣は、その人がどれだけ努力してきたかで決まる。(23頁)

さらに、著名な画家の言葉を引用し、

「諸君が天性の才能に恵まれているなら、勤勉がそれを高めるだろう。もし恵まれないとしても、勤勉がそれにとって代わるだろう。(96頁)

と述べています。

本書が素晴らしいのは、「単に勤勉であれ!」と述べるのではなく、具体的な方策まで指し示しているところです。

例えば、手帳を一冊携えて、気にかかることをメモしていけば、勤勉さは自然に身につくと言っています。哲学者ベーコンや生物学者ダーウィンも、丹念に書きとめたメモから偉大な発想を生み出したのだと述べています。

 

●適切な自尊心を持ち、尊敬する人物をまねる

優れた仕事を成し遂げるためには、自尊心がなければならない。

「自尊心とは、人間が身にまとう最も貴い衣装であり、何ものにもまして精神をふるい立たせる」(214頁)

ここで適切な自尊心を持つには自分が最も尊敬する人物を真似するのがいいと著者は言います。われわれの人格は、周囲の人間の性格、態度、習慣などによって無意識のうちに形づくられるというのです。

こうなりたい人間=ロールモデルについては、歴史上の人物でも構いません。

 

●自らの長所を伸ばせ

優れた人格を獲得するためには、短所は見ずに長所を伸ばすことを著者は勧めます。

自身のなさも、人間の進歩発展にとっては大きな障害となる。(中略)自分の力に自信を持っていたからこそ成功でき」るものだからです。(207〜208頁)

また、「真の謙虚さとは自分の長所を正当に評価することであり、長所をすべて否定することとは違う」と説きます。

 

●感想など

書店に行くと自己啓発書は沢山目にします。最近はタレントやyou tuberなどの著作も数多く出版されています。批判をする訳ではありませんが、内容を見ていると、単に自分の経験を述べているだけだったり、どこかで読んだ事がある内容だったり、玉石混交なのも事実です。

そうした観点でいうと、この「自助論」は時代という篩にかけられた上で現在まで生き続けている古典であり、読んで間違いのない作品です。

一見、「言い訳をするな!自分の人生は自分で切り拓け!」という厳しい内容が書かれているかと思いきや、「自分のことを信じて前に突き進んでいけ!」と力強く読者を鼓舞してくれます。

まさに、これぞ自己啓発書中の自己啓発書。エマーソンの「自己信頼」とも並ぶ傑作だと思います。

他にも、ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」、スティーブン・R・コビーの「7つの習慣」、D.カーネギー「人を動かす」など、自己啓発書の古典は多いですが、「自分に自信がもてない」という悩みを抱えている方にはこの「自助論」を勧めたいです。私自身とても勇気付けられた作品です。是非、自助の精神を身につけ、行動につなげていきたいです。

「世界一わかりやすい教養としての哲学講義」小川仁志 監修(宝島社)の要約、感想など①

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世界一わかりやすい教養としての哲学講義 小川仁志 監修

(宝島社)¥1400(+税)

 

本書の特徴

「哲学は難しい。何からどう学べば良いかわからない。」そういった声に応えてくれるのが本書だと思います。

哲学者、小川仁志さんの監修で古代ギリシア〜現代までの主要哲学者の思想についてわかりやすく学べる本書は非常に魅力的です。

哲学入門に関する本は多々ありますが、字面が多くてわかりづらかったり、何巻にも分かれていたりと、あまり親切でない本も見受けられます。本書はイラストも多くてスラスラ読み進められますし、個々の哲学者の思想の核となる部分が全て収められている良書です!

倫理の教科書とかって、堅苦しくて読んでいてもあまり面白くないですよね…

肩の力を抜いて学べるものこそ良書だと思います。

何分割かにして、要約、感想を述べたいと思います。

古代ギリシアの哲学者(ソクラテスプラトンアリストテレス

 

ソクラテスは言わずと知れた哲学の父ですね。

「知らないくせに知っていると思っている人よりも、自分のように、自分が知らないということを自覚している人のほうが賢いのではないか」と考え、「無知の知」と名づけ、生涯にわたって真理の探究をしたソクラテス。ユニークなのは、「魂(プシュケー)」への配慮という考え方です。

ソクラテスが生きた時代のアテナイの人々は、現代と同じように、富や名声に関心を抱いていました。しかし、ソクラテスはただ、富や名誉をばかりを追い求める態度に対して、「魂(プシュケー)への配慮が足りない」と批判しました。これはどういう意味でしょうか?

ソクラテスは、いくら恵まれた資産や環境を持っていても、それが正しく使わなければ幸せになれないと考えました。具体的には自分が持っているものを他者に役立てる事こそが、ソクラテスの考えた「魂への配慮」です。

以降、哲学は弟子のプラトンプラトンの弟子のアリストテレスと今日まで連綿と歴史を紡いでいくことになりました。

 

プラトンは普遍的真理を求めて探究を続け、「イデア」という概念を生み出します。「イデア」は我々が生きている現実世界とは異なる、完全で永遠不滅の世界を指します。一見突拍子もない話のように思えるのですが、非常に面白くて魅力的な概念でもあります。

プラトンの言いたいことはザックリ言うとこうです。

「我々は物事を感覚でしか捉えていない。真実はイデアにある。心の目で真実を見よ。イデアの世界を見つめよ。」

何にでも理想の姿がある。それを追い求める事が大切だと言われると、非常に納得のいく話です。

 

アリストテレスは、プラトンの弟子で、プラトンが主宰するアカデメイアに学び、アレクサンドロス大王の家庭教師にもなりました。

アカデメイアはアカデミーの語源にもなっていますね。

アリストテレスは師のプラトンに比べて現実主義の思想で、プラトンが本質は「イデア」にあるとしたのに対して、本質は現実の中にあるとしています。

アリストテレスは物事の存在を4つの原因に分類しています。(質料因、形相因、目的因、作用因)

イスを例にすると、以下の通りになります。

質料因(物事の材料)

イスの材料は木材。

形相因(物事の本質)

イスは人が座るための道具。

目的因(物事の存在目的)

作業をするために必要。

作用因(物事の原因)

職人が作った。

 

ここまで分類する必要はあるのか(笑)と思うほどアリストテレスは物事の存在を分割して考えたのです。

また、アリストテレスは幸福についても語っています。彼は幸福を「物事が持つ本来の能力を発揮する事」であると説きました。それはソクラテス以降大切にされてきた、「徳」のある生き方に他なりません。

また、徳についても

・知性的徳

→物事を判断する知恵、理解する知恵

・倫理的徳

→勇気、節制、友愛、正義など

に分類し、このうち倫理的徳が幸福になるためには特に大切であり、これを身につけるには、「中庸」が最も大切であると説きます。

勇気は度が過ぎると無謀になり、少な過ぎると臆病になります。その「中庸」の徳を身につける事が幸福につながると説きました。

また、こうした知性的徳、倫理的徳を人々がそなえた状態を「全体的正義」と名づけ、理想としたのです。

 

以上の3人は古代ギリシアの知の巨人と言うべき存在ですが、それぞれ思想は異なっています。特に、師弟関係であったプラトンアリストテレスの思想が大きく異なっているところは非常に面白いところです。

この思想の違いを表した絵画も描かれていますね。ルネサンス絵画の巨匠、ラファエロが描いた「アテナイの学堂」です。ピタゴラスユークリッドなど古代の賢人たちが集う中、絵の中心にプラトンアリストテレスが描かれています。プラトンは指を天に向けて突き出し、アリストテレスはそれに反論するかのように手を正面に向かって突き出しています。

イデア」を指し、本質は「イデアの中にあるのだ」と言わんばかりのプラトンに、「いや、物事の本質は現実世界にこそあるのです。」と応えているようなアリストテレス

各々の思想の違いを表現した非常にドラマチックで面白い作品です。

 

イギリス経験論と大陸合理論、社会契約論

古代ギリシアから長く時が経ち、キリスト教神学に隷従する形でなんとか生き延びてきた哲学が再び息を吹き返すのが16世紀です。

キリスト教会の権威も徐々に衰えていく中、フランシス・ベーコンデカルトなどの哲学者、ホッブズ、ロック、ルソーといった政治思想家が続々と現れます。

 

ベーコンは16世紀の哲学者でイギリス経験論の祖となります。ベーコンは自然法則を支配する原因を導き出し、人間が自然を支配する力を得る事が大切だと説きました。また、帰納法という方法論を生み出した事でも有名です。

帰納法とは、実験や観察によって導き出された経験的な事実から、共通した法則を導き出すという考え方です。(個々→全体法則へ。)

たとえば、あらゆるカラスを観察して、黒いという結果が得られれば、カラスは黒いと結論付けます。

しかし、正しく観察しようと思っても、人間の判断にはしばしば先入観、バイアスなどが働き、しばしば正確な結果が得られないこともあります。ベーコンはその点についても、「四つのイドラ」(イドラ=排除すべき偏見)という形で警鐘を鳴らしています。

 

●四つのイドラ

種族のイドラ

=人間という種族の特性に由来する偏見。

例えば視覚や聴覚などの五感による情報、心理的なバイアスなど。

(太陽が地球の周りを回っている=天動説も一種の錯覚によるもの。)

 

洞窟のイドラ

=個人の経験、趣味趣向、性格などに由来する偏見。

(洞窟の中にいるように視野が狭まる。)

 

市場のイドラ

=不完全な言葉に由来。

噂話、真偽不明の情報など。

 

劇場のイドラ

=権威や伝統に由来。

既存の学説、専門家の発言など。

 

ベーコンはこれらの偏見を排除して初めて正確な観察ができると説きました。

ベーコンからすれば、専門家の意見を聞いただけで正しいと思ってはいけない。噂話などに惑わされてはいけない。実験と観察によらなければ正しい結論は導き出せないということになりますね。

 

ベーコンは「人間は経験により正しい知識を得ていく」という経験論の祖となり、ロックもまた、この立場の人物です。ロックは人間をタブラ・ラサ(=白紙)」と表現し、さまざまな経験が書き込まれることで、観念を形成していくとしました。

一方デカルトは、人間が持つ観念は生まれつきのものである(大陸合理論)として、ロックと論争を繰り広げました。

この、大陸合理論は後の時代に登場する西洋哲学の巨人、カントによって、一応の決着を見ることになります。

 

また、この時代は、今まで王権は神から与えられた(王権神授説)という考え方が一般的だった西洋で、国家と人民との関係(社会契約論)を唱える思想家が登場してきます。

ホッブズやロック、ルソーです。

それぞれ、前提としている人間観が違いますが、それぞれ全く新しい国家と人民との関係性を解き明かしていきました。これらは後の市民革命の原動力となり、現代民主主義の萌芽となりました。

 

感想など

数年前、哲学を学んでみたい!と思い始めた私は書店に行って、カントの「純粋理性批判」を立ち読みし始めました。そして、読み始めて間もなく、本を閉じました。

書いている内容が一行たりとも理解できなかったからです!

 

哲学書は通常、これまでの歴史、議論を前提として書かれており、そこを学ばない限り、書物の中で一体何の議論をしているのかすら分からないようになっています。ましてや最難書とされる「純粋理性批判」にいきなり手を伸ばすなど、明らかに愚かな行為でした。。

(当然、今読んでも理解できるなどとは到底思えませんが。。)

 

そこで、哲学の入門書を色々と探し、偶然本書に出会ったのですが、数多ある入門書の中でも

以下の点でかなりの良書だと思いました。

 

①とにかくわかりやすい。(タイトルの世界一わかりやすいは伊達ではない。)

 

②思想の核となる部分が数ページに簡潔に収まっている。

 

③図があって視覚的にわかりやすい。

 

④イラストがかわいい。

 

ワクワクしながら読み進められるので、多くの人におすすめしたい本です。続きは次回とします!

ソロモンの指環[動物行動学入門]コンラート・ローレンツ

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ソロモンの指環 コンラート・ローレンツ 日高敏隆訳 早川書房 ¥740(+税)[動物行動学入門]

 

「刷り込み」などの理論で有名なノーベル賞受賞の動物行動学者、ローレンツが、けものや鳥、魚たちの生態をユーモアとシンパシー溢れる筆致で描いた名作。本書では、研究者の立場からローレンツが動物と共に過ごし、観察することで得られた発見が書かれています。

動物行動学とは、文字通り動物の行動について研究するものですが、これを学問として確立したのはローレンツであり、その最初の一冊がこの「ソロモンの指環」です。

本書を読んでいるうちに読者には十分過ぎるほど伝わりますが、あらゆる動物と一緒に四六時中生活するのは想像以上に大変なことです。本書では、ローレンツの苦労もたくさん書かれているのですが、同時に動物への深い愛も伝わってきます。さらに、動物の観察だけでなく、人間社会の洞察も描かれている点が本書の素晴らしいところです。

刊行から70年経った今でも私たちに驚きと感動を与えてくれる名著。是非多くの人に読んでほしいです。読了後は動物を見る目がきっと変わることでしょう!

 

●本書のタイトルについて

本書は「ソロモンの指環」というちょっと変わったタイトルをしていますね。タイトルだけで動物行動学の本とはなかなか理解できないと思います。私自身、最初タイトルを聞いた時は小説であると思ってしまいました。

実は、タイトルは旧約聖書の列王記に由来しています。

 

旧約聖書の述べるところにしたがえば、ソロモン王はけものや鳥や魚や地を這うものどもと語ったという。そんなことは私にだってできる。ただこの古代の王様のように、ありとあらゆる動物と語るわけにはいかないだけだ。その点では私はとてもソロモンにはかなわない。けれど私は、自分のよく知っている動物となら、魔法の指環などなくても話ができる。この点では私のほうがソロモンより1枚うわてである。(131頁)

 

 ソロモン王といえば、イスラエルペリシテ人などの外的から守り、国家としての地位を確固たるものにしたダヴィデの後の王であり、貿易などを通じてイスラエルに繁栄をもたらした人物です。また、ソロモン王は聡明な人物として有名ですね。ソロモン王が統治していた当時はまさにイスラエル繁栄の最盛期で「ソロモンの栄華」と言われた時代でした。しかし、このソロモン王の時代を境として、民衆は他の民族との交流の中で異教徒の信じる神を信じたり、ソロモン自身も1000人近くの妾をもつなど、秩序は徐々に乱れていき、やがて国家の断裂、崩壊という流れになってしまうのですが。。

 

さて、そのソロモン王ですが、本書にもある通り、魔法の指環を通じてあらゆる動物と語ることができた、というエピソードが聖書の中にあるようです。ローレンツはそれを引き合いに出し、自分は魔法の指環などなくとも、動物と心を通わせることができるということを言っているのです。

 

●動物たちへの憤懣

まず、本書は動物たちとの生活のいやな面について書かれています。ローレンツは、動物たちと生活するうえでいやな面をどれほど我慢できるかによって、その人がどれくらい動物好きなのかが分かるといいます。たとえば、

・庭に干した洗濯物のボタンを片っ端から食いちぎってまわるオウム

・青い実を食べた小鳥がそこらじゅうのカーテンや家具に、洗っても抜けない青いしみをつけてまわる。

・ハイイロガンが毎晩寝室に入り込んで夜を過ごし、朝になると毎朝外に向かって飛び出していく。

こういった大変なことが永遠に起きる日々だといいます。

それでも、ローレンツは動物たちを金網や檻には決していれなかったといいます。

それはなぜか?

知能の発達した高等動物の生活を正しく知ろうとするためには、彼らを自由にさせておくことが必要だからです。

檻の中のサルや大型のインコは心理的にも損なわれていて、しょんぼりしている一方、自由な世界では、信じられないほど活発でたのしそうで、興味深いいきものになるといいます。(15頁)

 

・逆檻の原理

自由な動物たちはローレンツ一家によくなついていて、決して遠ざかろうとはしなかったといいます。

「あ、鳥が籠からにげちゃった。はやく窓をしめて!」-よその家ならこう叫ぶ。私の家では反対だ。-「おうい、窓を閉めてくれ!オウムが(カラスが、オマキザルが)はいってくる」。

 

また、ローレンツの妻が発明した、「逆檻の原理」というところも面白いです。ローレンツ一家の中では、檻は通常とは真逆の意味を持っていたといいます。

ローレンツの娘がまだ小さかったころ、大型で危険な動物ー数羽のワタリガラス、二羽のオオバタン、二匹のマングースキツネザル、一匹のオマキザルを買っていたそうですが、それらの動物は危険で、娘といっしょにさせることができなかったことから、ローレンツの妻はなんと、大きな檻をつくって、娘をその中に入れたというのです。

 

・こうした憤懣をうめあわせてくれるもの

しかし、こうした、高くつく憤懣も、埋め合わせてくれるものがあるといいます。

逃げようとすればいつでも逃げられるのに、私のそばにとどまっている、それも私への愛着からとどまっている動物たち、それも私への愛着からとどまっている動物たち、それが私にとってはたまらない魅力なのだ。(21頁

 

ローレンツが動物たちを自由にさせている理由がこの一文からわかりますね。すなわち、彼にとって動物は単なる研究対象ではなく、愛の対象であり、友であるということです。

さらに、ローレンツが飼っていたワタリガラスは、彼らの声にローレンツが応えると、大空から舞い降り、ふわりと肩にとまったといいます。その瞬間、ローレンツには彼らに本が引き裂かれたことなどもすべて償われたように感じたそうです。

 

●永遠にかわらぬ友-コクマルガラス

本書では、ローレンツが長く生活を共にしてきた動物として、コクマルガラスが紹介されています。

コクマルガラスは非常に発達した社会生活を営む鳥ですが、ローレンスが最初のヒナを育ててから、数十年にわたってローレンスの家の屋根にやってきてはヒナを返す関係性になったそうです。最初のヒナは鳴き声から「チョック」となずけられ、ローレンスと散歩やサイクリングに出かけました。チョックからコクマルガラスは徐々に増えていき、ローレンスは10羽程度のコクマルガラスを飼育する中で、彼らから多くの生態を学ぶことになりました。

たとえば、

・はばたいていく黒い翼を見ると、本能的に「いっしょに飛んで来い」という意味に理解し、飛んでいきたい衝動に駆られる。

コクマルガラスの群れは、年長のコクマルガラスを中心に行動する。どの方向に飛ぶか、帰る方向はどこかなど。

コクマルガラスカササギやカモなどとは異なり、どの動物が天敵となるかを年長のコクマルガラスから学ぶ。

・自分の仲間がつかまったのを目撃したとき、コクマルガラスは「ギャアギャア」という警戒音を発して激しく攻撃する。

 

特に、一度「ギャアギャア反応」を起こさせたら最後、いかにコクマルガラスが馴れていようと、永久に感情を害してしまうようです。

 

同じ鳥類でも暮らしぶりは全く異なります。仲間との関係性や本能的な反応まで。カラス類は非常に賢い動物という印象はありますが、高度に社会生活を営む動物であるということは驚きです。

 

また、彼らのコミュニケーション方法は人間でいうところの言語とは全く異なることも記されています。カラスの渡りの群れは、巣に戻るか、それとも飛び続けるか、「全体の生理的気分の割合」で判断しています。コクマルガラスが「キャア」と叫ぶときは遠くに飛ぼうという生理的気分にあるとき、「キュウ-」は家へということを強調しているといいます。(122頁)

そうした「キャア」気分か、「キュウ」気分か、そうした生理的気分が8割方に達したとき、それが雪崩のように広がり、一斉に遠くに飛んでいくか、家に帰っていくようです。

 

●ガンの子マルティナ

ソロモンの指環の中でひと際感動的な場面がこの章です。ハイイロガンのヒナの世話から、「刷り込み」という概念を発見したシーンは感動的です。

ある日、孵卵器から一羽のハイイロガンのヒナがかえりました。

少し長いですが引用します。

彼女は頭をすこしかしげ、大きな黒い目で私を見上げて、じっとみつめる。そのとき彼女はかならず片目で見た。たいていの鳥の例にもれず、ハイイロガンも何かをちゃんと見定めようとするときはかならず片目で見るのである。長い間、じつに長い間、ガンの子は私をみつめていた。私がちょっと動いて何かしゃべったとたん、この緊張は瞬時にしてくずれ、ちっぽけなガンは私にあいさつをはじめた。つまり彼女は首を下げて私のほうへぐっとのばし、すごく早口にハイイロガン語の気分感情語をもらしたのである。(中略)たとえハイイロガンの儀式を知りつくしている人でさえ、これが彼女の人生いや雁生初のあいさつだということは見抜けなかったろう。そして彼女の黒い瞳でじっとみつめられたとき逃げださなかったばかりに、不用意にふたことみことなにか口を開いて彼女の最初のあいさつを解発してしまったばっかりに、私がどれほど思い義務をしょいこんでしまったか、さすがの私もづかなかったのである。(159-160頁)。

 

ローレンスはヒナの瞳を見て、何かことばを発し、のあいさつを誘発させたことにより、「刷り込み」が起こりました。ローレンスは一羽のガチョウにそのハイイロガンの世話をさせようとしましたが、ヒナはヴィヴィヴィヴィ・・(ハイイロガンの気分感情語で「私はここよ、あなたはどこ?」)と発し、ローレンスのもとに走り寄ってきました。実に感動的な場面です。

あわれなヒナは首をのばし、ひっきりなしに泣きながら、ガチョウと私の中間あたりに立ち止まっていた。私はちょっと体を動かした。とたんに泣き声はやみ、ガンの子は首を伸ばしたまま、必死になってヴィヴィヴィヴィ・・とあいさつしながら、私めがけて走ってきた。それはじつに感動的な一瞬であった。(161頁)

 

ローレンスは彼女をマルティナと名付け、我が子のように一緒に暮らすようになります。驚くべきことに、ローレンツはハイイロガン語を操っていたといいます。

マルティナと一緒に外出した際、ローレンツは「ガギガ」(ハイイロガン語で「歩くよ、歩くよ、飛ばないよ。」を意味。)と発すると、マルティナはローレンツに向かって一目散に歩いていったといいます。周囲の人々はさぞ驚いたことでしょう。

 

●モラルと武器

ここでは、動物たちの同族に対しての攻撃とその抑制が書かれています。私たちは肉食動物は凶暴で残虐、草食動物は従順で大人しいというイメージを持っています。しかし、それはローレンツに言わせてみれば、全くの誤りです。例えば、肉食獣のオオカミは、喧嘩で負けた相手にどのような態度をとるか、驚くべきことに、鋭い牙を持つ相手に向けて、自らの首を差し出して、降伏のポーズをとるのです。そこには、強い「抑制」が働いています。

一方で、草食動物のノロジカは、「角」という武器を持っていますが、オオカミのような抑制ははたらきません。したがって彼らはその武器を「自由に」使えるのです。そのため、しばしば、同族(メスでさえも)を殺してしまうという事態を引き起こします。

このように、食性だけでは、凶暴性というものは判断できないとわかります。

また、オオカミのそうした抑制行動に関して、ローレンスは次のように評しています。

私はここで感覚的な価値判断を下したい。オオカミが噛みつけないということを私は感動的ですばらしいことだと思う。だが、相手がそれに信頼しきっているということはそれにもましてすばらしいことではないだろうか。一匹の動物が、自分の命を騎士道的な作法に託すのだ!ここにはわれわれ人間の学ぶべきことがある。少なくとも私は、それまでどうしても反抗の念を禁じえなかった聖書のあの美しい、そしてしばしば誤解されているあのことばー「人もし汝の右の頬をうたば、左をもむけよ」ということばに、新しい、より深い意味を汲み取った。オオカミが私に教えてくれたのだ。敵に反対の頬を差し出すのは、もっと打たせるためではない。打たせないためにそうするのだ!(277頁)

 

 また、人間に対しても次のように洞察しています。

自分の体とは無関係に発達した武器を持つ動物がたった一ついる。したがってこの動物が生まれつきもっている種特有の行動様式はこの武器の使い方をまるで知らない。この動物は人間である。(278頁)

 人間には鋭い爪も牙もありません。しかし、自らの身体に寄らない恐ろしい破壊力を持った武器を使うようになり、地球上で人間に敵う動物はいなくなりました。しかし、ヒトが武器を使いだしたのは、進化の歴史から見ると、ごく最近のことです。そんな短い期間のうちに、抑制の行動様式が備わるはずもなく、結果的に歯止めがきかない状況です。われわれが動物に学ばなければならないことは多いのです。

●感想

本書は単なる動物行動学入門の書ではありませんでした。筆者ローレンツの動物に注がれる暖かい眼差しが最後まで貫かれております。

本書は既に古典というべき作品ですが、現代、そしてこれからも輝きを失うことはないでしょう。愛情をもって接すれば、動物たちはそれに応えてくれるし、彼らと心を通じ合わせるのも不可能ではない。ローレンツはそのことを私たちに示してくれたのだと思います。

社会や人間関係は人類史的には数千年で大きく変化していっていますが、これは進化論的にはすさまじいスピードで、人間がそれに対応しきれなくなり、様々な歪が生じてしまうのは当然であると思います。今、人間が動物たちから学んでいくべきこともたくさんあるのではないでしょうか。本書を読んでそんな感想を持ちました。

老若男女問わず様々な人におすすめの本です!

 

 

 

「方法序説」デカルト (角川ソフィア文庫)

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方法序説デカルト 角川ソフィア文庫

          ¥552(税別)

 

哲学の古典として知られるデカルトの「方法序説」。名前は聞いたことがある方は多いと思いますが、読んだことのある方は意外と少ないのではないでしょうか。

「序説」という題の通り、本来は独立した本ではありません。「屈折光学」「気象学」「幾何学」の三つの論文を一つにまとめ、それにこの「序説」が付されました。この「方法序説」は、正確には「理性を正しく導き、もろもろのおける真理を探究するための方法序説といいます。

序説とだけあって、全体で127頁ほどしかありませんが、一文一文がやや長いため、必ずしもスーッと読める訳ではありません。しかし、デカルトの思想、人物像が文章から浮かび上がり、読んでいて飽きません。当時の時代背景などを多少知っていると、より内容が理解しやすいと思いますが、専門的な知識がなくとも読めるためとてもおすすめです!

 

●構成

方法序説冒頭において、デカルトによって構成が説明されています。以下のように、六部に分かれています。

 

第一部 もろもろの科学にかんする考察

第二部 著者が探し求めた方法の主な法則

第三部 著者がこの方法から引き出した道徳上の若干の法則

第四部 著者の形而上学の根底をなす神と人間の霊魂との存在を証明するいろいろの根拠

第五部 著者が研究した物理学の書体系

第六部 著者が今よりも自然の研究にもっと深く突き進むために必要だと感じている若干の事柄と著者に本書を書かせるに至った若干の理由

 

このうち、デカルト思想の核となる部分が表されているのは、第四部です。

 

今回は全てのパートには触れませんが、いくつか重要と思われる箇所をピックアップして触れたいと思います。

 

●第一部

方法序説は第一部冒頭から印象的なフレーズで始まります。

「良識(ボンサンスー)」はこの世でもっとも公平に配分されているものである。(10頁)

本書、157頁目でこの文章の持つ意義皇室について解説されていますが、これはまさしく「思想の領域における人権宣言」と解釈できる一文です。なぜなら、当時(17世紀)は神によって選ばれた者のみが真理を認識できる能力を持ち、人を導くことができると考えられていたからです。(157頁)

 

また、さらにデカルトはこのように続けます。

「正しく判断し、真偽を判別する能力ーこれがまさしく良識、もしくは理性と呼ばれているところのものだがーは、生まれながらに、全ての人に平等であることを証明している。(中略)

というのは、健全な精神を持っているということだけでは十分ではなく、大切なことはそれを正しく適用することだからである。

つまり、良識は全ての人に備わっているが、それをどのように正しく適用させていくかーこれが本書においての大きなテーマとなります。

正しく物事を判断できるのは神だけではなく、すべての人間に備わっている事を前提とした事はキリスト教社会においては相当に意義深い事であると思います。

 

また、デカルト自身、自分の精神を他の人たちよりも優れているなどと自惚れた事はないと述べた上で、デカルトの目的は、各人がその理性を正しく導くために従うべき方法を教えることではなく、ただ単に自分がどのように理性を導く努力をしたかをお目にかける事だ、と述べています。

学問の探究に関する、デカルトの非常に謙虚な人柄が窺えます。

 

第一部では、これに続く形でデカルト自身のこれまでの学問の変遷が書かれています。デカルトは何を学び、何に失望したのか。経緯が詳細に記されています。

 

デカルトの「学び」の変遷

デカルトは、ヨーロッパの著名な学校であらゆる学問を修め、占星術などの本を含め、手に入れることができる限りの本は全て読破したと述べています。デカルトはこれらの学問には意味がある事を認識する反面、それらの学問に盤石な基礎が築かれておらず、真理の探究というには程遠いということを実感するようになります。

その後は文字の学問を捨て去り、旅行をし、軍隊での経験を踏まえ、「世間という大きな書物のなか」に真の学問を見出そうとします。

根底には、真と偽をはっきりと区別する事を学びたいという願いがあったのです。

 

●第二部

こうしてデカルトは、正しく理性を用いて物事の真偽を判断するための方法を模索するようになります。そして。幾何学などを学ぶ中で以下四つの準則を見出します。

 

一、わたしが明証的に真理であると認めるものでなければ、どんな事柄でも真実として受け取らないこと。(注意深く、即断と即決を避ける)何ら疑問をさし挟む余地のないほど明瞭かつ判明にわたしの精神に現れるものいがいはけっして自分の判断に包含させない。

 

ニ、検討しようとする難問の一つ一つを多数の小部分に分割する。

 

三、もっとも単純で認識しやすいものから始めて少しずつ、複雑なものへと思考を導いて行くこと。

 

四、最後に、全般にわたって、自分は何一つ見落とさなかったと確信するほどの完全な列挙と見直しを行う。

 

デカルトはこの方法を用いることにより対象へのより鮮明な理解、さまざま科学の問題の検討がより容易になったと述べています。

現代でも様々な問題を検討するにあたって非常に有効となりそうなアプローチですね。

 

●第四部

第三部は省略して第四部です。ここで有名な「我思う故に我あり」という考え方が登場します。デカルトは、真理について探求する中で、少しでも疑問を挟む余地のあるものは全て虚偽であるとみなした上で、最後になんら疑う余地のないものが残るか、ということを考えるようになります。

こうして全ての物事を虚偽として考えようとしていたデカルトでしたが、そう考えている「わたし」が存在する事は疑い得ないものであることに気付きます。

「わたしは考える、だからわたしは存在する」というこの真理は、懐疑論者のどんなに途方もない仮定といえどもそれを動揺させることができないほど堅固で確実なのを見て、わたしはこれを自分が探求しつつあった哲学の第一原理として何の懸念もなく受け入れることができると判断した。(59頁)

本書で最も有名な部分であると思います。デカルトはこの、「わたしは考える、だから私は存在する」という考えを自身の哲学の第一原理としました。

デカルトにとって、この原理はゴールではなく、スタート地点であるということがとても重要なところです。

また、この章の中でデカルトは同時に、「神」の存在の絶対性を述べています。神については、わたしの存在よりも完全であり、世界は神なしには存在できないという理由で神の存在は絶対であると結論づけています。

疑いうるものは徹底的に疑うはずのデカルトが、なぜか神の存在は最初から完全であるため疑いようがないと主張しているため、違和感を覚えるところです。この部分については、のちに若干の補足を加えてみます。

 

第5部は肉体と思考の関係性、人間と動物の違い、医学的な人体の構造等が述べられていますが、割愛します。

 

●第6部

本書を刊行するにあたった経緯等が述べられています。

デカルトは、当初は論文を発表する予定などはなかったと述べています。しかし、やがて自分の著作が他者に検討されることが自身の喜びにつながるであろうと思うにいたり、数本の論文と併せて本書を刊行することにしたそうです。また、それらの著作に対して反対説がある人は反対説を出版社あてに送ってくれと言っています。さらに、それに対して簡潔な返答を行うように心がけるとも述べています。

デカルトの学問に対する非常に謙虚な姿勢を垣間見ることができます。

かつ、自分の母国語であるフランス語で書いたのは、ラテン語で書かれた書物しか読まない「インテリ層」よりも一般の人々の方がもっともよく自分の意見を判断してくれると期待したからだといいます。

 

●考察・感想等

近代哲学の父、デカルトの「方法序説」。その功績は、「神」の存在抜きで真に確かなことは何か、ということを考察したことにあると思います。まず、既存の学問を一通り学び、手に入れられる書物は全て読破したうえで、既存の学問自体を疑い、新たに自身の学問を打ち立てるにあたっての方法を模索し始める、というのは通常、到底到達しえない発想であると思います。そして、あらゆるものを徹底的に疑ったうえで、「疑っている自分は疑いえない」というところから自身の学問をスタートさせるに至りました。

キリスト教全盛の時代、人々は教会の言うことにしたがってさえいればよいという考えが主だった時代(これは本来のキリスト教の趣旨からは大きく外れており、腐敗していると言ってよいかとは思いますが。。)、極めて現実的な思考で、人間に生まれながらに備わる理解力を最大限に生かし、真理を探究する方法を考え抜いたデカルトは、まさに哲学を復興させた人物でしょう。

しかし、なぜとって付けたように神学の重要性や神の存在の絶対性を本書で述べているのか、、それは「当時の思想的な弾圧を避けるため」という意図があったと思えてなりません。ほぼ同年代の哲学者で「エチカ」を著したスピノザは、無神論者であるとして弾圧されています。

また、デカルトはこのように「人間存在=考えること」と考えましたが、肉体と精神を完全に二分して考えています。しかし、このことは肉体が精神に与える影響については無視しており、後に20世紀の哲学者メルロ=ポンティは、これを批判する形で身体論を中心とする独自の理論を打ち出しました。

後の世代で批判もされているデカルトですが、逆に言えば、彼が偉大な存在だからこそ、常に乗り越えるべき対象になってきたと言えると思います。本書は近代哲学を発展させた記念碑的作品であるという位置づけは今日も変わらないと思いますし、デカルト的な思考は現代社会でも非常に有効であると思います。何より、哲学書としては圧倒的に薄くてとっつきやすいです。数百年前の哲学者の本が日本語訳で、しかも数百円で買える。。すばらしいことですね。